2009年04月12日
三人称でプラクティス
今日は天気が良いので街にでようと計画していたのだけれども、昨日長時間外出したのか2日連続で出かける気がしない。出かけたくない理由はもうひとつある。街にでるとお金を使うからだ。今まではそうでもなく、ただ街をぶらついているだけで問題なかったのだが、今は街をぶらついていると色々なものが欲しくなる。主に仕事関係のものだったり生活用品であったりするから別に贅沢をしているというわけではないのだけれども、もう少し節約していかないといけないなぁと思う。
その代わりといっては何だが、本が集中して読める感覚が戻ってきた。どうもその時のライフスタイルに拠ることが大きいらしい。フルタイムで働いていると、やはり仕事が中心であり、収入も安定するからストレスは金銭を使うことなどで発散されるが、フリーランスの不安定な生活に戻ると金銭感覚は自然と厳しくなってくる。
フルタイムとフリーランスは本当に違う。フルタイムで正社員として働いていると、自分の時間がまず確保できない。9時から5時のような勤務時間(まず今時そんな定時で終わる仕事も少ないだろうが)でも勤務すればそれだけ時間的な拘束がとられる。同時に精神的な安定が手に入り金銭も使うようになる。あと死後とで集中力を使うから本を読む気力があまりわいてこない。
そのようなフルタイムの仕事をしたことで切り替わった自分の精神的構造を、もう一度フリーランスの構造に戻さないといけない。フルタイムの構造とフリーランスの構造はまったく違う。金銭感覚よりも違う。フリーランスにとって大切なのは感性だ。安定を求める志向であれば感性はまた違うものとなる。商品を提供する側と買う側の違いのようなものである。僕らフリーランスは自らが企画をつくり、それを商品としてフルタイムの仕事をする(金銭的に余裕のある)お客様に買っていただいてはじめて生活が成り立つ。それを勘違いして「俺は自由だ。自分の人生を生きている。君たちは資本の奴隷だ」など自分の考えに凝り固まった正論をいえば、反発を生み商品は買ってもらえない(仕事は与えてもらえない)。だから僕らはなるべくフルタイムの人の視点や腰の位置に最大限に気を使い、そのなかで生活費を稼いでいかなければいけないのだ。自らの自由と引き換えに、僕らは見下される等の差別を受け入れなくてはいけない。差別はされて当然なのだ。そこはしっかりと受け入れないといけない。
誰もが自分の知っている範囲で物事を理解しようとする。僕だってそうだ。知っている範囲でそれよりも大きな物事を理解したふりをするから、矮小化された考え方になる。それは何かを理解しようとするときにとても不利になる。知ったかぶりほど損な人生はない。何か得られるかもしれないことを自ら放棄しているに等しい。ネットで検索してでてこない素晴らしい思想と出会うことだってあるかもしれない。それをネットで検索して知ったつもりになるのはもったいない。対話から生まれるのがこれからの新時代を切り開くメソッドだ。
フルタイムから感性が戻ってきた気がする。この感性は大切にしていきたい。これを失ってしまったら僕は僕でなくなるのだろう。果たして僕が僕であると思うような生き方が正しいのかどうかわからないけれども、この感性を磨いて商品にしていきたいと思う。結果を残さなければ生き残れない。僕もそういう覚悟を持たなければいけない年齢になった。
明日からはプラクティスとして3人称を用いて文章を書いてみようと思う。一人称だとどうしても自己の主張が強過ぎてていけない。日記書いていても仕方ないからね。プラクティスプラクティス…
その代わりといっては何だが、本が集中して読める感覚が戻ってきた。どうもその時のライフスタイルに拠ることが大きいらしい。フルタイムで働いていると、やはり仕事が中心であり、収入も安定するからストレスは金銭を使うことなどで発散されるが、フリーランスの不安定な生活に戻ると金銭感覚は自然と厳しくなってくる。
フルタイムとフリーランスは本当に違う。フルタイムで正社員として働いていると、自分の時間がまず確保できない。9時から5時のような勤務時間(まず今時そんな定時で終わる仕事も少ないだろうが)でも勤務すればそれだけ時間的な拘束がとられる。同時に精神的な安定が手に入り金銭も使うようになる。あと死後とで集中力を使うから本を読む気力があまりわいてこない。
そのようなフルタイムの仕事をしたことで切り替わった自分の精神的構造を、もう一度フリーランスの構造に戻さないといけない。フルタイムの構造とフリーランスの構造はまったく違う。金銭感覚よりも違う。フリーランスにとって大切なのは感性だ。安定を求める志向であれば感性はまた違うものとなる。商品を提供する側と買う側の違いのようなものである。僕らフリーランスは自らが企画をつくり、それを商品としてフルタイムの仕事をする(金銭的に余裕のある)お客様に買っていただいてはじめて生活が成り立つ。それを勘違いして「俺は自由だ。自分の人生を生きている。君たちは資本の奴隷だ」など自分の考えに凝り固まった正論をいえば、反発を生み商品は買ってもらえない(仕事は与えてもらえない)。だから僕らはなるべくフルタイムの人の視点や腰の位置に最大限に気を使い、そのなかで生活費を稼いでいかなければいけないのだ。自らの自由と引き換えに、僕らは見下される等の差別を受け入れなくてはいけない。差別はされて当然なのだ。そこはしっかりと受け入れないといけない。
誰もが自分の知っている範囲で物事を理解しようとする。僕だってそうだ。知っている範囲でそれよりも大きな物事を理解したふりをするから、矮小化された考え方になる。それは何かを理解しようとするときにとても不利になる。知ったかぶりほど損な人生はない。何か得られるかもしれないことを自ら放棄しているに等しい。ネットで検索してでてこない素晴らしい思想と出会うことだってあるかもしれない。それをネットで検索して知ったつもりになるのはもったいない。対話から生まれるのがこれからの新時代を切り開くメソッドだ。
フルタイムから感性が戻ってきた気がする。この感性は大切にしていきたい。これを失ってしまったら僕は僕でなくなるのだろう。果たして僕が僕であると思うような生き方が正しいのかどうかわからないけれども、この感性を磨いて商品にしていきたいと思う。結果を残さなければ生き残れない。僕もそういう覚悟を持たなければいけない年齢になった。
明日からはプラクティスとして3人称を用いて文章を書いてみようと思う。一人称だとどうしても自己の主張が強過ぎてていけない。日記書いていても仕方ないからね。プラクティスプラクティス…
2009年04月11日
まずは自分が倒れない
この前、江戸の時代は共倒れしない社会、誰かが倒れたら自分のところにまでその悪影響があるからなるべく共生を目指す社会だって書いた。
いま企業社会でこの共生の思想がなくなってきているのだよね。僕も、僕の親も末端の下請けだからわかるのだけれども、企業が利益を中心に考えるとどうしてもそのしわ寄せは下に回ってくる。短期的視点でみればそれでいいと思うよ。1年とかの短期スパンで考えればね。でもこっちにだって生活はあるから、仕事があるときだけだす(それもできるだけ値切られて)、そんなに都合の良い仕事の仕方なら続けられない(倒れてしまう)。多くの中小零細企業がそういう辛い目をみている時代なのだよね。
では値切っている発注先の人間が悪い人間かっていうとそうでもない。サラリーマンには会社の法則に従わなければならないという大前提があるから、会社の方針には逆らえない。それもまた辛い立場なのだ。それでストレスを溜めて、自らの思考をストップさせながら家庭を支えている人が世の中の大部分を占めている。
だったらどうしたらいいのだろうかといつも思うのだけれども、とりあえず基本に立ち戻ることだと思う。仕事は人間関係なのだから、関係を切りたくないと思われる人間性を発揮する。そして仕事のスキルももちろんあげて商品の精度もあげていく。同時に、同じ発注先に拘るのではなく新しい取引先も開拓する。そしてあまりにもひどい扱いで無理だと思った取引先とは「喧嘩せずに」次の可能性も残しながら取引を休止して別の会社の仕事をする(もちろんこれは次の取引先がみつかったらということが前提だ)。
もちろん、これだけ産業構造が変革しているなか、既存のように世の中は進行しない。車だって昔みたいにバカスカ売れなくなるだろうし、新築で建物だってバカスカ建たなくなる。高速道路だってダムだってもう必要がなくなる。そういう公共事業的な仕事のお零れにいつまでも頼っていたら、いくら可能性を探してもそこに先は見えない。
僕の今の仕事の一つは土木関係の設計の仕事なのだけれども、それを基本に考えていて生活を考えるとそこには将来はないなぁとも思う。もっと産業構造の変革にあわせて、新しい分野の仕事を開拓していかないと先はない。これは時代の流れだ。まぁそんなことを、ここに一々記さないでもテレビでも本でも多くの人が言っていることだし、大切なのはだったらどうするんだよ、ってことなのだよね、結局。
人のことは知らない。誰かを救ってあげられるほど僕には余裕がない。まずは自分が倒れないようにすることが最優先課題だ。それを変に「誰かを救うことで僕も救われる」という一時的な感情に流されてしまうと自らが別の方向(政治等)に引っ張られていってしまう。これは商売をする上で非常に危険なので自らしっかりと注意しなければいけない。
車や建築や土木といった既存の主要産業は明らかに衰退するだろうね。じゃ、次はIT産業なのかと言えば違うような気もする。それは文字数の関係もあるから、また次回に記すことにしよう。とりあえず、今回の結論じみたことを書こうかな。「共倒れしないためいにはまず自分が倒れないこと」。
いま企業社会でこの共生の思想がなくなってきているのだよね。僕も、僕の親も末端の下請けだからわかるのだけれども、企業が利益を中心に考えるとどうしてもそのしわ寄せは下に回ってくる。短期的視点でみればそれでいいと思うよ。1年とかの短期スパンで考えればね。でもこっちにだって生活はあるから、仕事があるときだけだす(それもできるだけ値切られて)、そんなに都合の良い仕事の仕方なら続けられない(倒れてしまう)。多くの中小零細企業がそういう辛い目をみている時代なのだよね。
では値切っている発注先の人間が悪い人間かっていうとそうでもない。サラリーマンには会社の法則に従わなければならないという大前提があるから、会社の方針には逆らえない。それもまた辛い立場なのだ。それでストレスを溜めて、自らの思考をストップさせながら家庭を支えている人が世の中の大部分を占めている。
だったらどうしたらいいのだろうかといつも思うのだけれども、とりあえず基本に立ち戻ることだと思う。仕事は人間関係なのだから、関係を切りたくないと思われる人間性を発揮する。そして仕事のスキルももちろんあげて商品の精度もあげていく。同時に、同じ発注先に拘るのではなく新しい取引先も開拓する。そしてあまりにもひどい扱いで無理だと思った取引先とは「喧嘩せずに」次の可能性も残しながら取引を休止して別の会社の仕事をする(もちろんこれは次の取引先がみつかったらということが前提だ)。
もちろん、これだけ産業構造が変革しているなか、既存のように世の中は進行しない。車だって昔みたいにバカスカ売れなくなるだろうし、新築で建物だってバカスカ建たなくなる。高速道路だってダムだってもう必要がなくなる。そういう公共事業的な仕事のお零れにいつまでも頼っていたら、いくら可能性を探してもそこに先は見えない。
僕の今の仕事の一つは土木関係の設計の仕事なのだけれども、それを基本に考えていて生活を考えるとそこには将来はないなぁとも思う。もっと産業構造の変革にあわせて、新しい分野の仕事を開拓していかないと先はない。これは時代の流れだ。まぁそんなことを、ここに一々記さないでもテレビでも本でも多くの人が言っていることだし、大切なのはだったらどうするんだよ、ってことなのだよね、結局。
人のことは知らない。誰かを救ってあげられるほど僕には余裕がない。まずは自分が倒れないようにすることが最優先課題だ。それを変に「誰かを救うことで僕も救われる」という一時的な感情に流されてしまうと自らが別の方向(政治等)に引っ張られていってしまう。これは商売をする上で非常に危険なので自らしっかりと注意しなければいけない。
車や建築や土木といった既存の主要産業は明らかに衰退するだろうね。じゃ、次はIT産業なのかと言えば違うような気もする。それは文字数の関係もあるから、また次回に記すことにしよう。とりあえず、今回の結論じみたことを書こうかな。「共倒れしないためいにはまず自分が倒れないこと」。
2009年04月10日
当たり前のことを当たり前に
簡単で、リズム感があり、センスがある文章を書こうとしているのだけれど、そんなことを考えていると文章が書けなくなる。でも、ブログにアップしている自己満足(マスターベーション)的な文章であればそれでいいのだろうけれども、しっかりと商品にしようと思ってそれを目指しているのであれば、もっと課題を明確にして基礎となる土台を築くためにしっかりプラクティスしなければならない。
昨日も書いたけれども、僕は文章を書くのが嫌いではない。自分の考えを文体で表現するのが好きだ。でも、それは好きだというだけで、人に読んでももらえる商品ではないということだ。これは問題だ。思えば仕事だって恋愛だってそうだ。たとえば自分が好きな仕事があったとする。やりたい仕事があったとする。でもその仕事に就くにはそれなりの努力と過程と資格がいる場合が多い。恋愛だってそうだ。自分が好きだというだけでは恋愛は成り立たない。
仕事に対しても、恋愛に対しても(その他この世にまつわる多くの事柄も)大切なことは自信を持つことなのだろうなと思う。同じことをやっても自信をもって行ったときと、自信なしに行ったときでは不思議と結果が違ったものとなる。だから「自信を持って生きていこう!」と書店にならぶ新刊やビジネス書には書いてあるけれども、そんな当たり前のことを当たり前にできれば誰も苦労はしない。
これは小さい頃から思っていたことなのだけれども、当たり前のことを当たり前にやるのは本当にむつかしいことなのだと実感している。早寝早起きしたほうが良いとか、酒は飲みすぎないほうが良いとか、規則正しい生活をしたほうが良いとか、それこそ小さい子供から言われているな事柄を多くの人が実践できていない。そう、そういう僕もそうだ。第一言っている親だってできていない(笑)。
でもね、最近は少しずつだけれど、当たり前のことが少しずつできるようになってきた(この歳になってやっとかよ、と言われそうだけど)。毎朝5時に起きて朝1時間ウォーキングするようになって、もう半年以上経過しているし、朝食も毎日つくってしっかり食べて、一日三食野菜中心に食べるようにもなった(これで体脂肪率が5%減って12%になった。この年齢にしては良いほうでしょう?)。語学勉強もここ1ヶ月前から開始した。フルタイムの仕事で停滞気味だった文章も、毎日書くようになったし、本もできるだけ読むようになった。感性を普通に近づけるために毎週一本はDVDをみてCDも借りるようになった。
継続することは大切。もし僕が○○を○歳の頃から根気よく現在まで続けていたら…とかついつい考えしまう。人生なんて結局は積み重ねなのだからね。どう生きてきたかだからね。それは例にすると語学は顕著だね。どれだけ単語を知っているか、そのボキャブラリーをどう使えるかが重要であって、一生懸命勉強したところで、数ヶ月で語学が堪能になるわけではない。だから多くの人が3日坊主とはいかないまでも、長続きして継続できないのだよね。最近気づいたのだけれども(というか当たり前のことかもしれないけれども)、コツは最初から頑張らないことなのかなぁと思う。続けることを前提に少しずつ習慣化されることをまず第一に考えれば長続きするのだろうね。頭ではそんなことはわかっていたのだけれど、実践できるのに長い時間がかかった。結局そんなものなのだろう。
昨日も書いたけれども、僕は文章を書くのが嫌いではない。自分の考えを文体で表現するのが好きだ。でも、それは好きだというだけで、人に読んでももらえる商品ではないということだ。これは問題だ。思えば仕事だって恋愛だってそうだ。たとえば自分が好きな仕事があったとする。やりたい仕事があったとする。でもその仕事に就くにはそれなりの努力と過程と資格がいる場合が多い。恋愛だってそうだ。自分が好きだというだけでは恋愛は成り立たない。
仕事に対しても、恋愛に対しても(その他この世にまつわる多くの事柄も)大切なことは自信を持つことなのだろうなと思う。同じことをやっても自信をもって行ったときと、自信なしに行ったときでは不思議と結果が違ったものとなる。だから「自信を持って生きていこう!」と書店にならぶ新刊やビジネス書には書いてあるけれども、そんな当たり前のことを当たり前にできれば誰も苦労はしない。
これは小さい頃から思っていたことなのだけれども、当たり前のことを当たり前にやるのは本当にむつかしいことなのだと実感している。早寝早起きしたほうが良いとか、酒は飲みすぎないほうが良いとか、規則正しい生活をしたほうが良いとか、それこそ小さい子供から言われているな事柄を多くの人が実践できていない。そう、そういう僕もそうだ。第一言っている親だってできていない(笑)。
でもね、最近は少しずつだけれど、当たり前のことが少しずつできるようになってきた(この歳になってやっとかよ、と言われそうだけど)。毎朝5時に起きて朝1時間ウォーキングするようになって、もう半年以上経過しているし、朝食も毎日つくってしっかり食べて、一日三食野菜中心に食べるようにもなった(これで体脂肪率が5%減って12%になった。この年齢にしては良いほうでしょう?)。語学勉強もここ1ヶ月前から開始した。フルタイムの仕事で停滞気味だった文章も、毎日書くようになったし、本もできるだけ読むようになった。感性を普通に近づけるために毎週一本はDVDをみてCDも借りるようになった。
継続することは大切。もし僕が○○を○歳の頃から根気よく現在まで続けていたら…とかついつい考えしまう。人生なんて結局は積み重ねなのだからね。どう生きてきたかだからね。それは例にすると語学は顕著だね。どれだけ単語を知っているか、そのボキャブラリーをどう使えるかが重要であって、一生懸命勉強したところで、数ヶ月で語学が堪能になるわけではない。だから多くの人が3日坊主とはいかないまでも、長続きして継続できないのだよね。最近気づいたのだけれども(というか当たり前のことかもしれないけれども)、コツは最初から頑張らないことなのかなぁと思う。続けることを前提に少しずつ習慣化されることをまず第一に考えれば長続きするのだろうね。頭ではそんなことはわかっていたのだけれど、実践できるのに長い時間がかかった。結局そんなものなのだろう。
2009年04月09日
ボランティアとサスティナブル
どのような文章を書いていいのか迷う。ただ文章を羅列して文字数を稼いで『カタチ』として継続できることは以前のプラクティスで実証された。そして論文調に書くことで、堅い文体であるが、それなりの文章が書けることも同じく(「あくまでプラクティス」として)実証された。
でもそれでは商品にならない。僕は学者ではないから、論文を書いてもお金はもらえない。そのような仕事も来ない。だったら軽い内容を書けばいいじゃないかと言われそうだけれど、軽い文章というのが、これがけっこう難しい。特に文体にリズム感を出すのは論文の書き方ではダメなのだ。構成方法がまるで違う。当然センスも必要となる。
ほぼ日刊イトイ新聞の糸井さんの日記なんて参考になるのだろう。簡潔な言葉で人の心に心に響く文章を書いている。さすがにコピーライターだと思う。人の心に響かなければ続けて読んでもらえない。続けて読んでもらわなければ商品とならない。商品でなければ糸井さんも生活が成り立たないし、それだったら、ただのブロガーになってしまう。プロとアマチュアの差、それは確実に報酬だと思う。それは文章でも、音楽でも、芝居でも、すべての分野において当てはまるだろう。
自分の文章や、書いている内容をいくら褒めてもらっても、それが報酬に結びつかなければ、それはただのアマチュアでしかない。ボランティアという概念は大切だけれども、そこには限界があり、プロであればしっかりと報酬を貰う責務が生じるのだ。
いま色々なものが無料化している。悪いことではないし、僕もその恩恵を受けている。マクドナルドでこの文章を書いているのだけれども、外出先でも無線LANで無料に開放された回線につないでネットを閲覧することができる。少し前には想像もできなかった時代だ。ただ無料ってどうなのだろうなぁという思いは強い。無料化することで雇用が減少したり、賃金が低下することもあるだろう。でもそれが悪いことなのか、それとも新しい時代はそれが基本となる良い傾向なのか、僕はよくわからない。本当に激動の時代で、変化はその日その日によって変わってきている。社会の動きが早すぎる。
行政の仕事にも携わっていて、昨今のボランティアブームには同じように驚いている。マルクスは資本主義が社会主義になり、やがて共産主義に移行する、と書いた(らしい)が、何かそんな感じがしてきた。またこういう話になると長くなるから書かないけれども、この高度な資本主義社会は確かに限界に達しているのかもしれない。その次の時代として、社会主義というかそのような共生の想いが強い社会ができあがってきているのかなぁと最近は思っている。ボランティアブームはその兆候のようにも思える。江戸時代はとくかく『共倒れ』しないような社会だったと聞いている。周りが倒れるとこちらも大変だから支えあって生きていこうという、どちらかと言えば合理主義的な考え方だったらしい。そのような過去の素地がある日本という国が、これから世界の模範的国家になる可能性は高いような気もする。相手が倒れたらこっちも困る、という合理的な考えで物事を考えることは、相手を救って自分も救われたいなどという宗教的な考えよりも進歩的で実利的だと思う。そういう意味でのボランティアなら歓迎なのだけどね。物事は少し角度が違うだけで大きく変わってくる。そういう実利ならばサスティナブルだろう。
でもそれでは商品にならない。僕は学者ではないから、論文を書いてもお金はもらえない。そのような仕事も来ない。だったら軽い内容を書けばいいじゃないかと言われそうだけれど、軽い文章というのが、これがけっこう難しい。特に文体にリズム感を出すのは論文の書き方ではダメなのだ。構成方法がまるで違う。当然センスも必要となる。
ほぼ日刊イトイ新聞の糸井さんの日記なんて参考になるのだろう。簡潔な言葉で人の心に心に響く文章を書いている。さすがにコピーライターだと思う。人の心に響かなければ続けて読んでもらえない。続けて読んでもらわなければ商品とならない。商品でなければ糸井さんも生活が成り立たないし、それだったら、ただのブロガーになってしまう。プロとアマチュアの差、それは確実に報酬だと思う。それは文章でも、音楽でも、芝居でも、すべての分野において当てはまるだろう。
自分の文章や、書いている内容をいくら褒めてもらっても、それが報酬に結びつかなければ、それはただのアマチュアでしかない。ボランティアという概念は大切だけれども、そこには限界があり、プロであればしっかりと報酬を貰う責務が生じるのだ。
いま色々なものが無料化している。悪いことではないし、僕もその恩恵を受けている。マクドナルドでこの文章を書いているのだけれども、外出先でも無線LANで無料に開放された回線につないでネットを閲覧することができる。少し前には想像もできなかった時代だ。ただ無料ってどうなのだろうなぁという思いは強い。無料化することで雇用が減少したり、賃金が低下することもあるだろう。でもそれが悪いことなのか、それとも新しい時代はそれが基本となる良い傾向なのか、僕はよくわからない。本当に激動の時代で、変化はその日その日によって変わってきている。社会の動きが早すぎる。
行政の仕事にも携わっていて、昨今のボランティアブームには同じように驚いている。マルクスは資本主義が社会主義になり、やがて共産主義に移行する、と書いた(らしい)が、何かそんな感じがしてきた。またこういう話になると長くなるから書かないけれども、この高度な資本主義社会は確かに限界に達しているのかもしれない。その次の時代として、社会主義というかそのような共生の想いが強い社会ができあがってきているのかなぁと最近は思っている。ボランティアブームはその兆候のようにも思える。江戸時代はとくかく『共倒れ』しないような社会だったと聞いている。周りが倒れるとこちらも大変だから支えあって生きていこうという、どちらかと言えば合理主義的な考え方だったらしい。そのような過去の素地がある日本という国が、これから世界の模範的国家になる可能性は高いような気もする。相手が倒れたらこっちも困る、という合理的な考えで物事を考えることは、相手を救って自分も救われたいなどという宗教的な考えよりも進歩的で実利的だと思う。そういう意味でのボランティアなら歓迎なのだけどね。物事は少し角度が違うだけで大きく変わってくる。そういう実利ならばサスティナブルだろう。
2009年04月08日
旅行記について思うこと
かつて(ほんの少し前まで)は旅行記を書いて文体を売ろうと思っていた時期がある。今思えば世間知らずというか、マーケティングの仕事をやっていたのに何甘いことを考えているのだと言われても仕方がないような本当に甘い幻想だった。
はっきり断定はしてはいけないのだろうが、基本的に今の時代に旅行記は売れないと思う。今は誰でも気軽に海外に行ける時代だ。有名人の誰それがどこかに旅に出たという話ならば、その旅行記を誰か買う人もいるかもしれないが、他人の旅行記を読むよりも自分で行ったほうが良い。休みが取れない忙しいサラリーマンにしてみれば、長期休暇をとれるフリーランスの旅行記なんて腹が立つだけだと正直思う。本屋で『週末海外』という本があって立ち読みしたのだが、このような同じサラリーマンが書いた、1週間以内の休みの中でいける範囲の旅行記ならば需要があるかもしれない。一ヶ月を超える長旅なんて非現実的世界は普通の人は仕事をやめなければむつかしい。
たとえば僕が中国の○○へ行った、東南アジアの○○でこんなおいしいものを食べたと聞いても、多くの人はうらやましいという感触が持てない。それは自分がそこに行って同じ体験ができるわけではないし、行けるわけがないのに聞いても落ち込むか腹が立つだけだからだ。逆に、鹿児島でおいしい焼酎を飲んだ、新潟でうまい日本酒を飲んだ等というとうらやましがられる。忙しいサラリーマンにでも手の届く範囲、自分も行けると想像できる世界だからだ。
だいぶん変化してきたとはいえ、世の中の大多数がサラリーマンである日本社会では、フリーター的な旅行記が売れる要素はない。そしてフリーターは金がないから旅行記は買えない(笑)そしてそんな金があったら時間はあるのだから、たぶん自分で旅にでるか、違うものを買うだろう。マーケティング的な視点で、消費者ターゲットをサラリーマンと捉えると、どうしても旅行記は売れないという結論じみたものになる。どこか想像のつかない海外よりもまだ、どちらかといえば国内旅行での旅行記のほうが売れるかもしれない(でも、それは文字ではなくテレビでその需要がみられますね)。僕がたとえ中国でどんなにすごい体験をしてきても、それが商品になるとはとても思えないのだ。
今の時代に旅行記を書くのはむつかしい。相手を傷つけず落ち込まされないで、手にとって最後まで文章を読んでもらう。これだけの高度情報化社会では、その段階に進むまでにも大きな困難がある。文章を書く前に、自分の目線と腰の位置をしっかり意識しないと、それがどんなに素晴らしい考えでも、どんなに貴重な体験でも、人の心に響かないし、共感は得られない。文章を書くとは、文章力ももちろん大切だけれども、結局はどんな人間がどのように生きているか、どのように他者に真摯に向き合っているかなのだと思う。それが旅行記にせよ、何にせよ非常に重要なことなのだと思う。
はっきり断定はしてはいけないのだろうが、基本的に今の時代に旅行記は売れないと思う。今は誰でも気軽に海外に行ける時代だ。有名人の誰それがどこかに旅に出たという話ならば、その旅行記を誰か買う人もいるかもしれないが、他人の旅行記を読むよりも自分で行ったほうが良い。休みが取れない忙しいサラリーマンにしてみれば、長期休暇をとれるフリーランスの旅行記なんて腹が立つだけだと正直思う。本屋で『週末海外』という本があって立ち読みしたのだが、このような同じサラリーマンが書いた、1週間以内の休みの中でいける範囲の旅行記ならば需要があるかもしれない。一ヶ月を超える長旅なんて非現実的世界は普通の人は仕事をやめなければむつかしい。
たとえば僕が中国の○○へ行った、東南アジアの○○でこんなおいしいものを食べたと聞いても、多くの人はうらやましいという感触が持てない。それは自分がそこに行って同じ体験ができるわけではないし、行けるわけがないのに聞いても落ち込むか腹が立つだけだからだ。逆に、鹿児島でおいしい焼酎を飲んだ、新潟でうまい日本酒を飲んだ等というとうらやましがられる。忙しいサラリーマンにでも手の届く範囲、自分も行けると想像できる世界だからだ。
だいぶん変化してきたとはいえ、世の中の大多数がサラリーマンである日本社会では、フリーター的な旅行記が売れる要素はない。そしてフリーターは金がないから旅行記は買えない(笑)そしてそんな金があったら時間はあるのだから、たぶん自分で旅にでるか、違うものを買うだろう。マーケティング的な視点で、消費者ターゲットをサラリーマンと捉えると、どうしても旅行記は売れないという結論じみたものになる。どこか想像のつかない海外よりもまだ、どちらかといえば国内旅行での旅行記のほうが売れるかもしれない(でも、それは文字ではなくテレビでその需要がみられますね)。僕がたとえ中国でどんなにすごい体験をしてきても、それが商品になるとはとても思えないのだ。
今の時代に旅行記を書くのはむつかしい。相手を傷つけず落ち込まされないで、手にとって最後まで文章を読んでもらう。これだけの高度情報化社会では、その段階に進むまでにも大きな困難がある。文章を書く前に、自分の目線と腰の位置をしっかり意識しないと、それがどんなに素晴らしい考えでも、どんなに貴重な体験でも、人の心に響かないし、共感は得られない。文章を書くとは、文章力ももちろん大切だけれども、結局はどんな人間がどのように生きているか、どのように他者に真摯に向き合っているかなのだと思う。それが旅行記にせよ、何にせよ非常に重要なことなのだと思う。
2009年04月07日
再開
練習用にブログに文章を書こうと思う。今まで別のブログに簡単な文章を日記として書いてきたのだが、それとは別に仕事用の文章をプラクティスとして、こちらのブログでアップしていきたいと思う。
元々は中国でこのブログがネット規制でアクセス不可だったので、再度大陸に渡るのを機会に違うブログに変更したのだが、今ではそのブログも規制されているらしい。
ブログといっても一言で言って色々とあると最近は気づいた。このブログの良さはキーワード検索で同じ問題意識を持った人に探してもらえる確立が高いということだ。だから社会問題などのテーマはこちらに文章をアップしていきたいと思っている。
こちらのブログを再度アップするにあたって自分の中で以下のルールをつくりたいと思う。
①文字数は原稿用紙400枚×3の1200文字程度を基本とする。
②文字は20文字×20行の縦書きでワープロにて作成。
③テーマを絞り込み、できるだけ簡潔にわかりやすい文体を心がける。
④文章がマスターベーションにならないようにしっかりと一度紙面で設計してから文章を書く。
⑤文章にリズム感をつけることを心がける。
⑥ミニノートパソコンを使って外で書く。
⑦批評・批判・否定・解説はしない。なるべく物事を肯定的に捉えて表現する。
⑧無理して不完全な文章をアップすることはなるべく避ける。
⑨紙面など報酬に移行することを前提としてプラクティスとして書く。
久しぶりに長文で文章を書くと、どう書いていいのかわからなくなる。何をやるにしても、始めるのは簡単だが、継続させていくのはむつかしい。別の仕事もあるから毎日長文を書くというわけにはいかないが、自分の目標のひとつを達成するためにも土台となる反復練習は必要だと思う。
依然書いていた文章は、正論は述べているのだが、時代にあっていなかったと思っている。もはや正論が通じる時代ではないし、正論を最大限まで譲歩し、どう大切なことを簡潔に伝えるかが重要なのだ。何かを上から批判したり批評したりする文章では、一部の人を除いて、人の心に響かない。響かなければ商品とならない。商品とならないものはただの自己満足であるとも言える。批判・批評・否定は前の時代だ。世の中が正常に機能していた高度経済成長の一時期の表現スタイルだ。時代は変わった。表現スタイルも変えていかなければならない。これからは対話・理解・肯定の時代だと思う。
時代に着いていけない人間は淘汰される。それでも生きていける世代はいい。でも僕らは時代の変化に対応しなければいけない世代だ。この恐ろしく早い時代の変化という潮流に飲みこまれないように、上手にかわしながら、最大限に自分らしい生き方を見つけなければならない。ステップを踏みながら。余分なもの削除して、新たな経験を積み重ねながら。
自分の考えを文章として商品にするのはむつかしい。それはすぐにはできない。文字を基軸とする文章というのはあくまでその表現としての媒体であって、結局は自分という人間が未熟で勉強不足であれば、そのハードアイテムがいくら優れていても結果がともなわないのだろう。
僕は3つの仕事を軸にしてこれから生きていこうと思っている。二つは経験がある。しかしずっと長年フルタイムで働いてきたわけではないので実績がない。でもフリーランスとして、その実績を積むチャンスはもらえた。そのチャンスをもらえたことに感謝して鍛錬を続けていきたい。書くこと、それはすなわちどう生きてきたかということ。僕は僕のスタイルを文体によって表現できるような人間になりたい。結果は収入だ。文体で収入を得るという成功をイメージしながら文章を書いていこうと思っている。最後の一つのチャンスをつかむために。
元々は中国でこのブログがネット規制でアクセス不可だったので、再度大陸に渡るのを機会に違うブログに変更したのだが、今ではそのブログも規制されているらしい。
ブログといっても一言で言って色々とあると最近は気づいた。このブログの良さはキーワード検索で同じ問題意識を持った人に探してもらえる確立が高いということだ。だから社会問題などのテーマはこちらに文章をアップしていきたいと思っている。
こちらのブログを再度アップするにあたって自分の中で以下のルールをつくりたいと思う。
①文字数は原稿用紙400枚×3の1200文字程度を基本とする。
②文字は20文字×20行の縦書きでワープロにて作成。
③テーマを絞り込み、できるだけ簡潔にわかりやすい文体を心がける。
④文章がマスターベーションにならないようにしっかりと一度紙面で設計してから文章を書く。
⑤文章にリズム感をつけることを心がける。
⑥ミニノートパソコンを使って外で書く。
⑦批評・批判・否定・解説はしない。なるべく物事を肯定的に捉えて表現する。
⑧無理して不完全な文章をアップすることはなるべく避ける。
⑨紙面など報酬に移行することを前提としてプラクティスとして書く。
久しぶりに長文で文章を書くと、どう書いていいのかわからなくなる。何をやるにしても、始めるのは簡単だが、継続させていくのはむつかしい。別の仕事もあるから毎日長文を書くというわけにはいかないが、自分の目標のひとつを達成するためにも土台となる反復練習は必要だと思う。
依然書いていた文章は、正論は述べているのだが、時代にあっていなかったと思っている。もはや正論が通じる時代ではないし、正論を最大限まで譲歩し、どう大切なことを簡潔に伝えるかが重要なのだ。何かを上から批判したり批評したりする文章では、一部の人を除いて、人の心に響かない。響かなければ商品とならない。商品とならないものはただの自己満足であるとも言える。批判・批評・否定は前の時代だ。世の中が正常に機能していた高度経済成長の一時期の表現スタイルだ。時代は変わった。表現スタイルも変えていかなければならない。これからは対話・理解・肯定の時代だと思う。
時代に着いていけない人間は淘汰される。それでも生きていける世代はいい。でも僕らは時代の変化に対応しなければいけない世代だ。この恐ろしく早い時代の変化という潮流に飲みこまれないように、上手にかわしながら、最大限に自分らしい生き方を見つけなければならない。ステップを踏みながら。余分なもの削除して、新たな経験を積み重ねながら。
自分の考えを文章として商品にするのはむつかしい。それはすぐにはできない。文字を基軸とする文章というのはあくまでその表現としての媒体であって、結局は自分という人間が未熟で勉強不足であれば、そのハードアイテムがいくら優れていても結果がともなわないのだろう。
僕は3つの仕事を軸にしてこれから生きていこうと思っている。二つは経験がある。しかしずっと長年フルタイムで働いてきたわけではないので実績がない。でもフリーランスとして、その実績を積むチャンスはもらえた。そのチャンスをもらえたことに感謝して鍛錬を続けていきたい。書くこと、それはすなわちどう生きてきたかということ。僕は僕のスタイルを文体によって表現できるような人間になりたい。結果は収入だ。文体で収入を得るという成功をイメージしながら文章を書いていこうと思っている。最後の一つのチャンスをつかむために。
2008年04月02日
ブログの移動
今まで2つのブログに同じ文章を試験的に貼り付けていましたが、本格的にブログを移動します。
このブログは沖縄のブログであるためか、中国ではネット規制によって接続できないためです。試験の結果、検索ワードなどこちらのほうが機能が良いとは思うのですが、接続できないのであれば仕方ありません。
読んでいただいている方はこちらへお願いします。
http://ameblo.jp/gazzo/
このブログは沖縄のブログであるためか、中国ではネット規制によって接続できないためです。試験の結果、検索ワードなどこちらのほうが機能が良いとは思うのですが、接続できないのであれば仕方ありません。
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http://ameblo.jp/gazzo/
2008年04月01日
物質的な豊かさを我慢する
今週から仕事はない。来週から旅立つからだ。でも習慣で朝の7時には目が覚める。悪い習慣ではない。
本を読む気がしない。そろそろ僕の脳みその許容量も限界なのかもしれない。でも、限界を越えた先に本当の真実があるのだから、限界を越えないといけない。
最近はスタイルを考えている。生きていくスタイル、文体のスタイル。書くとはつまりどう生きるかということと同意義なので、どう生きるか、それがとても重要なのだ。
努力する、頑張るというのが今までの時代だった。高度経済成長下の主流だった。頑張れば報われる社会が前提としてそこにあったからだ。だからモーレツサラリーマンは競って働き、人より良い車、良い家、良い教育環境を希求した。同時に情報の高度化、大量生産大量廃棄のライフスタイルになった。
そして時代は変わった。ゆっくりと、でも確実に変わった。頑張っても報われない社会になったのだ。頑張っても良くて現状維持、今より悪くなるのはもう当然なのだ。さらに現状を維持しようとすれば、つまり現状のライフスタイルを維持しようとすれば、地球がもたない。だから既存の社会にしがみついて頑張っている人間(モーレツサラリーマン)はウザイのである(何に対して頑張るかは別である)。
思えばイタリアなどをそのような国だろう。イタリアだけでなく、ヨーロッパは産業革命で現在のライフサイクルに日本より先に達して、同時に日本より先に境地に達した。だから高度経済成長の日本はエコノミックアニマルと揶揄されて軽蔑された。背景にはそのような事情があると思う。同じような目で現在の中国みている人も多いだろう。自分の欠点はわからなくても、相手の欠点は目につくものである。
本当に変化しなくてはいけないなぁと思う。それは既存の価値感にしがみついていてはできない。でも、ヒッピーみたいに完全に現実離れしても無理だ。自由主義を標榜してバックパッカーとして旅行していれば良いわけでもない。
新しい社会とは、結局はどれだけ無駄なものを削ぎ落とすかだと思う。僕らの社会は無駄なものが多すぎる。無駄なものに囲まれて大切なものを喪失している。車、ケータイ、インターネット、それらのデジタル製品は本当に必要なのだろうか? デジタル製品を買うために僕らは働いているのだろうか? 消費するために生きているのだろうか? それを我慢することでどれだけ生活に余裕ができて無駄な労働をしないで済むのだろうか。本当にサラリーマンとして税金を納めていることだけが正しいのだろうか? そのために何か大切なものを失っていないだろうか? 物質的な豊かさを我慢する。そこを思考の中心として考えるべきなのだと僕は思うのです。
本を読む気がしない。そろそろ僕の脳みその許容量も限界なのかもしれない。でも、限界を越えた先に本当の真実があるのだから、限界を越えないといけない。
最近はスタイルを考えている。生きていくスタイル、文体のスタイル。書くとはつまりどう生きるかということと同意義なので、どう生きるか、それがとても重要なのだ。
努力する、頑張るというのが今までの時代だった。高度経済成長下の主流だった。頑張れば報われる社会が前提としてそこにあったからだ。だからモーレツサラリーマンは競って働き、人より良い車、良い家、良い教育環境を希求した。同時に情報の高度化、大量生産大量廃棄のライフスタイルになった。
そして時代は変わった。ゆっくりと、でも確実に変わった。頑張っても報われない社会になったのだ。頑張っても良くて現状維持、今より悪くなるのはもう当然なのだ。さらに現状を維持しようとすれば、つまり現状のライフスタイルを維持しようとすれば、地球がもたない。だから既存の社会にしがみついて頑張っている人間(モーレツサラリーマン)はウザイのである(何に対して頑張るかは別である)。
思えばイタリアなどをそのような国だろう。イタリアだけでなく、ヨーロッパは産業革命で現在のライフサイクルに日本より先に達して、同時に日本より先に境地に達した。だから高度経済成長の日本はエコノミックアニマルと揶揄されて軽蔑された。背景にはそのような事情があると思う。同じような目で現在の中国みている人も多いだろう。自分の欠点はわからなくても、相手の欠点は目につくものである。
本当に変化しなくてはいけないなぁと思う。それは既存の価値感にしがみついていてはできない。でも、ヒッピーみたいに完全に現実離れしても無理だ。自由主義を標榜してバックパッカーとして旅行していれば良いわけでもない。
新しい社会とは、結局はどれだけ無駄なものを削ぎ落とすかだと思う。僕らの社会は無駄なものが多すぎる。無駄なものに囲まれて大切なものを喪失している。車、ケータイ、インターネット、それらのデジタル製品は本当に必要なのだろうか? デジタル製品を買うために僕らは働いているのだろうか? 消費するために生きているのだろうか? それを我慢することでどれだけ生活に余裕ができて無駄な労働をしないで済むのだろうか。本当にサラリーマンとして税金を納めていることだけが正しいのだろうか? そのために何か大切なものを失っていないだろうか? 物質的な豊かさを我慢する。そこを思考の中心として考えるべきなのだと僕は思うのです。
2008年03月31日
人生に締め切りをつくる
政治・経済すべてにおいて、もう日本社会は限界に達していると思う。正直な話。誰もが気付いている。でも口には出さない。口に出すと不安で辛くてどうしようもなく、生きていけないから。だからストレスを溜めながらも必死で既存の価値観でつくられた社会で生きている。
僕は思う。終わったものにしがみついていても仕方ないじゃないか、と。でも、それは今時の言葉で言えばKY(空気読めない)なのだ。だって誰も新しい社会を築き上げる足がかりさえも見つけられないのだから。根拠のない夢追い発言は、たとえそれが正論でも通用しない。だから根拠は必要なのだ。プラクティカルにおいても、メタフィジカルにおいても。
僕は上辺を飾ってこのブログを書こうと思う。本音は別の場所で書くつもりだ。特に旅行中に本音を書くと困る状況になってきた。旅行に向けてこのブログを開設したのだが、無理する必要はない。このブログではレトリック(修辞法)の練習に当てようと思う。
最近は中国のDVDを見ながら中国語を思い出している。まったく使わなかったからね、ここ半年。中国にいると日本語をまったく使わない。切り替えという点ではうまくいっているかもしれないが、語学学習という面からみるとあまり好ましくないかもしれない。まぁ僕は中国語関係の仕事につくわけではないから、あまり語学が優秀でも意味はない。語学学習に使う時間があれば、別の勉強に時間を費やす。時間は重要だ。
色々とある。仕事しているほうが楽ですね。精神的に。休みになると不安になる。日本の社会に悪い意味で慣れてきたのかもしれない。でもそれではいけない。人生が80年と考えるとまだまだ先のような気もするけど、最近の僕の考えは違う。織田信長ではないが、人間50年だ。50歳という歳を区切りとして、50歳までにどう生きられるかを考える(だいたいそれまで人類が生き残れるかという問題はあるのだが)。だから年金だのそんな将来の不安は考えない。だから煽られない。身体が自由に動くもの50歳くらいまでだろう。身体能力は、人によって違うし、その歳にならないとわからないことなのだろうけど。
50歳といったらもう十数年しかない。短いようであっという間だ。それまでに何ができるのか、逆算して、今までの人生を含めて計算して、人生をプランニングしなければならない。自分の納得いくように。50歳まで必死に生きるのだ。それ以後の人生は余生だ。字の通り、余分に生きることだ。養わなければ成らない家族ができれば僕の考えも、もしかして変わるかもしれない。僕の考えが普遍的に正しいとは決して思わない。どちらかといえば、冷静にみて間違っているだろう。でも僕は人生に締め切りを作り、無駄なく懸命に生きたいのだ。誰にも合わせることのない自分の価値感において。責任を負うのは自分だ。自分で決定しないで他人の価値感にあわせると後悔する。僕は後悔だけはしたくないと思っている。
僕は思う。終わったものにしがみついていても仕方ないじゃないか、と。でも、それは今時の言葉で言えばKY(空気読めない)なのだ。だって誰も新しい社会を築き上げる足がかりさえも見つけられないのだから。根拠のない夢追い発言は、たとえそれが正論でも通用しない。だから根拠は必要なのだ。プラクティカルにおいても、メタフィジカルにおいても。
僕は上辺を飾ってこのブログを書こうと思う。本音は別の場所で書くつもりだ。特に旅行中に本音を書くと困る状況になってきた。旅行に向けてこのブログを開設したのだが、無理する必要はない。このブログではレトリック(修辞法)の練習に当てようと思う。
最近は中国のDVDを見ながら中国語を思い出している。まったく使わなかったからね、ここ半年。中国にいると日本語をまったく使わない。切り替えという点ではうまくいっているかもしれないが、語学学習という面からみるとあまり好ましくないかもしれない。まぁ僕は中国語関係の仕事につくわけではないから、あまり語学が優秀でも意味はない。語学学習に使う時間があれば、別の勉強に時間を費やす。時間は重要だ。
色々とある。仕事しているほうが楽ですね。精神的に。休みになると不安になる。日本の社会に悪い意味で慣れてきたのかもしれない。でもそれではいけない。人生が80年と考えるとまだまだ先のような気もするけど、最近の僕の考えは違う。織田信長ではないが、人間50年だ。50歳という歳を区切りとして、50歳までにどう生きられるかを考える(だいたいそれまで人類が生き残れるかという問題はあるのだが)。だから年金だのそんな将来の不安は考えない。だから煽られない。身体が自由に動くもの50歳くらいまでだろう。身体能力は、人によって違うし、その歳にならないとわからないことなのだろうけど。
50歳といったらもう十数年しかない。短いようであっという間だ。それまでに何ができるのか、逆算して、今までの人生を含めて計算して、人生をプランニングしなければならない。自分の納得いくように。50歳まで必死に生きるのだ。それ以後の人生は余生だ。字の通り、余分に生きることだ。養わなければ成らない家族ができれば僕の考えも、もしかして変わるかもしれない。僕の考えが普遍的に正しいとは決して思わない。どちらかといえば、冷静にみて間違っているだろう。でも僕は人生に締め切りを作り、無駄なく懸命に生きたいのだ。誰にも合わせることのない自分の価値感において。責任を負うのは自分だ。自分で決定しないで他人の価値感にあわせると後悔する。僕は後悔だけはしたくないと思っている。
2008年03月30日
古い船を沈めよう
世界情勢は大きく動いている。日本だって無関係じゃない。
香港での長期ビザの発給が3月28日からストップした。一昨年までは1年ビザが取得できた。去年12月までは半年ビザが取得できた。つい最近までは3ヶ月で、とうとう1ヶ月になってしまった。チベット動乱における西側諸国への対応の一環だろう。
チベット問題についてはある程度の予測ができた。台湾や朝鮮半島は焦眉の問題ではないと去年の旅では実感した。だから安心していた。でも早すぎた。僕の予想より早すぎた。達観していたのかもしれない。ダライ・ラマ亡命政府は、今回のデモからの一連の騒動を、中国政府の陰謀説を唱えるが、五輪前にチベット問題を解決しておきたい中央政府の思惑を考えれば、無い話ではない。いや、大いにありえるだろう。
今年はチベットとウイグル方面へ行く計画だったので、この長期ビザ発給中止のニュースはショックだ。3ヶ月+延長1ヶ月程度の期間があれば、何とかなると思っていたが、1ヶ月+延長1ヶ月では行ける行動範囲に限度がある。できる範囲で移動するしかない。香港ではなく、日本で早めに取得しておけばよかったのかもしれない。対応を誤るとこういうことになる。やれることは先送りせずにやらなければならない。そういう激動の時代なのだ。
これで北京五輪中止となれば中国の対応はどうなるのだろうか? 第二次天安門事件から中央政府は愛国教育を行ってきた。内に向く不満を外に向ける政策にでた。その結果、様々な歪なナショナリズムが蔓延る反日大学生が増えた。社会の不満を外に向けることに共産党はある一定の成功を収めたのだ。ただ、本当の意味で、中国の大学生が賢明なら、今回のチベット動乱をトリガーに、第三次天安門事件だってありえる。89年と同じように。かつてと違いネットもある。共産党によってネットで規制はされているが、チャットなどをライブで規制することはいくら共産党でもむつかしいからだ。僕の中国の友人もチベット問題について見解や写真を掲載しているが今のところ削除されていない。チェックが行き届かないのだろう。
チベット動乱で中国は、そして世界は大きく動く。日本が名実ともに軍国化するのは2010年だが、それまで世界は大きく動くかもしれない。北京五輪後までは大丈夫だと軽く考えていた僕の予想よりも早く…。僕らに残された自由の時間は少ない。僕らは戦時下に生きているとしっかりと認識したほうがよい。
日本のネットではフリーチベットを声高に主張する思惟を欠いた人々が多くいるが、中国を孤立させれば、それは日本にも多大の影響を及ぼすことを考慮しなければならない。はっきり言おう、日本という船は沈没しかけている。滅ぶのであれば、滅びの美学をしっかりやろうではないか。沈む船に必死でしがみついているより、新しい船を建造する心構えが必要なのだろう。既存の船は捨てよう。既存の船は沈めよう。新しい船を建造して、そして新しい時代に出航しよう。激動の時代の幕はすでに開けている。僕たちはそれでも新しい時代の扉を開くために生きていかなければならないのだ。古い船は捨てるべきだ。とりあえずしがみつくのはやめよう。
香港での長期ビザの発給が3月28日からストップした。一昨年までは1年ビザが取得できた。去年12月までは半年ビザが取得できた。つい最近までは3ヶ月で、とうとう1ヶ月になってしまった。チベット動乱における西側諸国への対応の一環だろう。
チベット問題についてはある程度の予測ができた。台湾や朝鮮半島は焦眉の問題ではないと去年の旅では実感した。だから安心していた。でも早すぎた。僕の予想より早すぎた。達観していたのかもしれない。ダライ・ラマ亡命政府は、今回のデモからの一連の騒動を、中国政府の陰謀説を唱えるが、五輪前にチベット問題を解決しておきたい中央政府の思惑を考えれば、無い話ではない。いや、大いにありえるだろう。
今年はチベットとウイグル方面へ行く計画だったので、この長期ビザ発給中止のニュースはショックだ。3ヶ月+延長1ヶ月程度の期間があれば、何とかなると思っていたが、1ヶ月+延長1ヶ月では行ける行動範囲に限度がある。できる範囲で移動するしかない。香港ではなく、日本で早めに取得しておけばよかったのかもしれない。対応を誤るとこういうことになる。やれることは先送りせずにやらなければならない。そういう激動の時代なのだ。
これで北京五輪中止となれば中国の対応はどうなるのだろうか? 第二次天安門事件から中央政府は愛国教育を行ってきた。内に向く不満を外に向ける政策にでた。その結果、様々な歪なナショナリズムが蔓延る反日大学生が増えた。社会の不満を外に向けることに共産党はある一定の成功を収めたのだ。ただ、本当の意味で、中国の大学生が賢明なら、今回のチベット動乱をトリガーに、第三次天安門事件だってありえる。89年と同じように。かつてと違いネットもある。共産党によってネットで規制はされているが、チャットなどをライブで規制することはいくら共産党でもむつかしいからだ。僕の中国の友人もチベット問題について見解や写真を掲載しているが今のところ削除されていない。チェックが行き届かないのだろう。
チベット動乱で中国は、そして世界は大きく動く。日本が名実ともに軍国化するのは2010年だが、それまで世界は大きく動くかもしれない。北京五輪後までは大丈夫だと軽く考えていた僕の予想よりも早く…。僕らに残された自由の時間は少ない。僕らは戦時下に生きているとしっかりと認識したほうがよい。
日本のネットではフリーチベットを声高に主張する思惟を欠いた人々が多くいるが、中国を孤立させれば、それは日本にも多大の影響を及ぼすことを考慮しなければならない。はっきり言おう、日本という船は沈没しかけている。滅ぶのであれば、滅びの美学をしっかりやろうではないか。沈む船に必死でしがみついているより、新しい船を建造する心構えが必要なのだろう。既存の船は捨てよう。既存の船は沈めよう。新しい船を建造して、そして新しい時代に出航しよう。激動の時代の幕はすでに開けている。僕たちはそれでも新しい時代の扉を開くために生きていかなければならないのだ。古い船は捨てるべきだ。とりあえずしがみつくのはやめよう。
2008年03月29日
仕事納め。次のステージへ
昨日で仕事は最後。最後に送迎会をしてもらった。それで昨日はブログを更新せず。まぁ仕方ない。
終わった瞬間に、もっと開放感があるかなぁと思ったが、実際は酒を飲みすぎたせいか、倦怠感(不安感)もけっこう強い。今日は土曜日だけど、今までは週末しか本をゆっくり読む時間がなかったから、時間を有効活用しなければ、と必死だったけど、来週も時間があると思うと後回しにしてしまう…。これは悪い傾向で改めなければいけない課題だろう。まぁ昨日は飲みすぎたし、今日くらいはゆっくりしても問題ないかもしれない。しかし、食べすぎ飲みすぎで胃がもたれて痛い…。
今回のステージで学んだことは大きい。現場に足を運ばないと本当の真実が見えないように、サラリーマン社会に入らないとサラリーマン社会の正確な真実は見えてこない。僕はその中に短期間でも属したことで、サラリーマン社会に再び触れることができた。最初はサラリーマン社会に嫌悪感を感じていたのだが、いざ働いてみると予想していなかったことだが、視点と腰の位置を変えると同じものでも色々と見えてきた。良くも悪くも。
自分に足りないものも見えてきた。サラリーマン社会を否定してはいけない。多くの人が信じているものを、自分の価値感と違うからといって否定してはいけない。そして価値感を押し付けられ、否定されて、差別されても怒ったり憤ったりしてはいけない。我慢して、その中で最善の解決策を思考して、メタファー隠喩)でさりげなくわかりやすく主張しなければならない。直接に主張するのは時代に逆行するし、受け入れられない。難しい話だとそれだけで目を逸らされる。難しい話を簡単に説明する。僕に欠けているのはその部分なのだと思う。その不足部分を補う作業や方法についてはまだまだ今後の課題だと思う。次のステージで解決のため努力したいと思う。
大切なのは自分を信じること。そして相手を尊重すること。まだまだ越える壁はたくさんあるけど、一生壁があるのだと思う。だから僕は限界の壁を越えて、それから次の壁を目指したい。はっきり言ってこういう直接的な「頑張ってますよ」的文章表現をしていること自体、かなり問題があると思う。あぁこれも僕の課題。越えないといけない壁。課題だらけだけど、考えたりしなければ課題は見つからないもの。課題を考えて思考して、克服のために努力する。そして今の時代はそれを全面的に主張しない。肩を張らずに自然体でやる。身体の不安とか解消された課題もあるが、同時に次の課題が多くみつかったステージでもあった。最後に、このステージに僕に関わって頂いた方たち、ありがとうございました。
終わった瞬間に、もっと開放感があるかなぁと思ったが、実際は酒を飲みすぎたせいか、倦怠感(不安感)もけっこう強い。今日は土曜日だけど、今までは週末しか本をゆっくり読む時間がなかったから、時間を有効活用しなければ、と必死だったけど、来週も時間があると思うと後回しにしてしまう…。これは悪い傾向で改めなければいけない課題だろう。まぁ昨日は飲みすぎたし、今日くらいはゆっくりしても問題ないかもしれない。しかし、食べすぎ飲みすぎで胃がもたれて痛い…。
今回のステージで学んだことは大きい。現場に足を運ばないと本当の真実が見えないように、サラリーマン社会に入らないとサラリーマン社会の正確な真実は見えてこない。僕はその中に短期間でも属したことで、サラリーマン社会に再び触れることができた。最初はサラリーマン社会に嫌悪感を感じていたのだが、いざ働いてみると予想していなかったことだが、視点と腰の位置を変えると同じものでも色々と見えてきた。良くも悪くも。
自分に足りないものも見えてきた。サラリーマン社会を否定してはいけない。多くの人が信じているものを、自分の価値感と違うからといって否定してはいけない。そして価値感を押し付けられ、否定されて、差別されても怒ったり憤ったりしてはいけない。我慢して、その中で最善の解決策を思考して、メタファー隠喩)でさりげなくわかりやすく主張しなければならない。直接に主張するのは時代に逆行するし、受け入れられない。難しい話だとそれだけで目を逸らされる。難しい話を簡単に説明する。僕に欠けているのはその部分なのだと思う。その不足部分を補う作業や方法についてはまだまだ今後の課題だと思う。次のステージで解決のため努力したいと思う。
大切なのは自分を信じること。そして相手を尊重すること。まだまだ越える壁はたくさんあるけど、一生壁があるのだと思う。だから僕は限界の壁を越えて、それから次の壁を目指したい。はっきり言ってこういう直接的な「頑張ってますよ」的文章表現をしていること自体、かなり問題があると思う。あぁこれも僕の課題。越えないといけない壁。課題だらけだけど、考えたりしなければ課題は見つからないもの。課題を考えて思考して、克服のために努力する。そして今の時代はそれを全面的に主張しない。肩を張らずに自然体でやる。身体の不安とか解消された課題もあるが、同時に次の課題が多くみつかったステージでもあった。最後に、このステージに僕に関わって頂いた方たち、ありがとうございました。
2008年03月27日
すべてはメタファー
「すべてはメタファーだ」とある人は言う。確かにそうなのかもしれないと僕も思う。メタファー(隠喩)、それが時代の趨勢だ。
売れている本を読んでいると、気付くのが肩に力を入れていないことである。鬱の時代に強く自己を主張するのは疎まれるのである。強く自己主張すれば、人は目を逸らすか、落ち込む。それでは物事は先に進まない。でも、だからといって、何も主張しないで良い訳ではない。思惟してその思想をカタチとして表現するのは大切だ。だからこそ、表現方法としてのメタファーが必要なのだ。
確かにありのままをありのままに表現すれば、それはある意味において楽だ。でも、それでは人の心に響かない。今という時代に、人に何かを伝えようと思ったら、メタファーが必要なのである。何かを膜に包んで伝え、心に尖らずに、それでも響く想像力とテクニックが必要なのである。
つまり、今までは事実をただ事実と伝えていればよかった。でも時代は変わった。ゆっくりだけど大きく変わった。みんな辛い事実や現実をそのまま受け止められるほど豊かではない。だから直接表現ではなく、間接表現で事実を伝えなくてはならない。例をあげれば、ジャーナリズムにもそれは言えるのだと思う。ただ辛い事実を辛いと報道していたのでは誰も見てくれない。落ち込むか目を逸らす。それが現在の日本だ。それで良いのだろうか? と僕は思う。いや良くない。だから思うのだ。どのように辛いか、それを読んでもらうには、どのように表現したら良いか、それが求められているのである。
つまり、今までの作業に、さらにもう一段階作業を積み重ねなければならない。事実を知ってもらうためには、事実をメタファーという皮膜を被せて真実を伝えなくてはいけない。それは現実的なルーティンワークと、感性を必要とするイマジネーションの織り成す世界である。想像力と現実、どちらかが欠けた文章では「商品」にならない。さて、たくさんの雑誌や新聞があるが、本当に商品と呼べる文章がどれくらい存在するのだろうか? 批判をしても仕方ない。それがおかしいと思っているのなら、まずは自分が実践することだ。そのために僕は旅に出る。自分の感性をギリギリの段階まで磨くために旅に出る。自らの感性についた余分な贅肉を削ぎ落とすために。難しい話はどうでもいい。まずは自分からである。納得がいかないのなら、自分が努力して変えるしかないだろう。結局は。答えはシンプルだ。
売れている本を読んでいると、気付くのが肩に力を入れていないことである。鬱の時代に強く自己を主張するのは疎まれるのである。強く自己主張すれば、人は目を逸らすか、落ち込む。それでは物事は先に進まない。でも、だからといって、何も主張しないで良い訳ではない。思惟してその思想をカタチとして表現するのは大切だ。だからこそ、表現方法としてのメタファーが必要なのだ。
確かにありのままをありのままに表現すれば、それはある意味において楽だ。でも、それでは人の心に響かない。今という時代に、人に何かを伝えようと思ったら、メタファーが必要なのである。何かを膜に包んで伝え、心に尖らずに、それでも響く想像力とテクニックが必要なのである。
つまり、今までは事実をただ事実と伝えていればよかった。でも時代は変わった。ゆっくりだけど大きく変わった。みんな辛い事実や現実をそのまま受け止められるほど豊かではない。だから直接表現ではなく、間接表現で事実を伝えなくてはならない。例をあげれば、ジャーナリズムにもそれは言えるのだと思う。ただ辛い事実を辛いと報道していたのでは誰も見てくれない。落ち込むか目を逸らす。それが現在の日本だ。それで良いのだろうか? と僕は思う。いや良くない。だから思うのだ。どのように辛いか、それを読んでもらうには、どのように表現したら良いか、それが求められているのである。
つまり、今までの作業に、さらにもう一段階作業を積み重ねなければならない。事実を知ってもらうためには、事実をメタファーという皮膜を被せて真実を伝えなくてはいけない。それは現実的なルーティンワークと、感性を必要とするイマジネーションの織り成す世界である。想像力と現実、どちらかが欠けた文章では「商品」にならない。さて、たくさんの雑誌や新聞があるが、本当に商品と呼べる文章がどれくらい存在するのだろうか? 批判をしても仕方ない。それがおかしいと思っているのなら、まずは自分が実践することだ。そのために僕は旅に出る。自分の感性をギリギリの段階まで磨くために旅に出る。自らの感性についた余分な贅肉を削ぎ落とすために。難しい話はどうでもいい。まずは自分からである。納得がいかないのなら、自分が努力して変えるしかないだろう。結局は。答えはシンプルだ。
2008年03月26日
継続社会に抗う
生活にリズム感をつけるのは良いかもしれない。具体的にいうと時間の区切りをつけるということ。それは社会のルールと逆行する。特に日本社会では逸脱する。僕らの社会は「継続」を前提に成り立っている。家を借りるのも、仕事を選ぶのも、ケータイ電話を借りるのも、すべては継続を前提として社会システムが成り立つ。継続以外の選択肢を選ぶと、とても損する仕組みができあがっている。そして僕らは閾下に継続を強要される…。それが僕らの社会だ。
僕はその流れに逆行したい。自ら率先して、自分の意思で、敢えて逆行したい。たとえ他人にどう思われようと、だ。今は半年タームで時間を動かすことを心がけている。半年旅で感性を磨き、半年日本で勉強(仕事)をする。もちろん継続しないことで不都合なことはたくさん生じる。でも、時間に制限があるから、その中で必死に学ぼうとする。だから惰性に陥る可能性は低い。時間の概念はしっかりと持ちたいと常に意識している。
今回の仕事も終わりに近づいてきて、「初心、忘れるべからず」という言葉を胸に刻む。今回でも、設計という仕事に短期で雇ってもらったことに感謝しなければならない。その気持ちを忘れるとまた人生に躓く。同じ失敗を何度も繰り返さないためにも、今回働き始めた時に感じた思いを忘れないようにしなければならない。感謝の気持ち(=デリカシー)を忘れれば人生に躓く。同じことは繰り返したくない。少しは成長しなければならない。
僕らの周りには色々と勉強する要素が転がっている。ただそれに気付くか気付かないかの違いである。どこだって勉強できるのだと思う。今日も帰宅の道を変えた。少し道を変えただけで、色々と新しい発見がある。近所にも、足元にもまだまだ知らないことはたくさんある。足元から何かが零れ落ちている。僕らは日常生活の中で何かを見落としている。それを少しずつ拾い上げて検証する作業が、面倒かもしれないけど、僕らの社会で失われた大切な作業なのかもしれない。
正直、仕事を辞めることに対して後ろ髪を引かれる思いもないではない。日本でこのまま安定したいという思いもないではない。また中国行くのはしんどいなぁと思わないでもない。でも僕は自分の可能性に挑戦したい。たった一度の人生なら自分の納得する道を歩きたいのだ。それは自分の手でしか勝ち取ることのできないものなのだと思う。少しずつでも目標に向けて前進を続けたい。
僕はその流れに逆行したい。自ら率先して、自分の意思で、敢えて逆行したい。たとえ他人にどう思われようと、だ。今は半年タームで時間を動かすことを心がけている。半年旅で感性を磨き、半年日本で勉強(仕事)をする。もちろん継続しないことで不都合なことはたくさん生じる。でも、時間に制限があるから、その中で必死に学ぼうとする。だから惰性に陥る可能性は低い。時間の概念はしっかりと持ちたいと常に意識している。
今回の仕事も終わりに近づいてきて、「初心、忘れるべからず」という言葉を胸に刻む。今回でも、設計という仕事に短期で雇ってもらったことに感謝しなければならない。その気持ちを忘れるとまた人生に躓く。同じ失敗を何度も繰り返さないためにも、今回働き始めた時に感じた思いを忘れないようにしなければならない。感謝の気持ち(=デリカシー)を忘れれば人生に躓く。同じことは繰り返したくない。少しは成長しなければならない。
僕らの周りには色々と勉強する要素が転がっている。ただそれに気付くか気付かないかの違いである。どこだって勉強できるのだと思う。今日も帰宅の道を変えた。少し道を変えただけで、色々と新しい発見がある。近所にも、足元にもまだまだ知らないことはたくさんある。足元から何かが零れ落ちている。僕らは日常生活の中で何かを見落としている。それを少しずつ拾い上げて検証する作業が、面倒かもしれないけど、僕らの社会で失われた大切な作業なのかもしれない。
正直、仕事を辞めることに対して後ろ髪を引かれる思いもないではない。日本でこのまま安定したいという思いもないではない。また中国行くのはしんどいなぁと思わないでもない。でも僕は自分の可能性に挑戦したい。たった一度の人生なら自分の納得する道を歩きたいのだ。それは自分の手でしか勝ち取ることのできないものなのだと思う。少しずつでも目標に向けて前進を続けたい。
2008年03月25日
長文でブログを書く意義
うむ、体調不良だ。今回の仕事で、呑気症(ストレスによる神経症の一種)で腹に空気がたまってパンパンになっている…。現在は、舌に口内炎ができて風邪の前兆もみられる。仕事も、あと少しだ。気を緩めているつもりはないのだけど、まぁ仕事が終わる時には何かのストレスは背負うものだ。良くしていてもらっていても、である。
体調が悪いと文章が書けない。書いてもひどい駄文である。いつものことである。だったらわざわざ長文で書く意味がないではないかと言われれば、まぁそうなのだが、毎日書く行為は継続したいと思って書いている。ありきたりの言葉で表現すれば、「継続は力なり」である。これは本当に実感している。あらゆる面で大切なことである。
長文でブログを書く意義を考えてみる。はっきりいって、こんな長文でまとまりのない文章を読む人は、それほど多くないだろう。しかも毎日である(笑)ブログを書く意義は人によって違うだろう。誰かに何かを伝えたい、自分のブログを読んでもらって存在意義を確認したい等々、人によって様々であると思う。僕の場合はただ単純に文章を書く練習の場所として、ブログは存在すると位置づけている。だったら別に公開しなくても良いのだが、やはり誰かに読んでもらうという視点は大切にしたほうが良いという気持ちも確かにあるのだ。もっと読んでブログのアクセス数をあげようと思ったら、それはそれで方法は、たぶんあるのだろう。まず長文の文章をやめることだ。写真などをワンフレーズで説明する。そんな形式のブログが人気があるようだ。でも、僕は別に多くの人に見てもらおうと思っているわけでない(見てもらえたら確かにうれしいと思うが)。だから長文を書き続ける。そして長文を書く過程から、自らの思想の軸のぶれを直し、生活リズムを調整して、次のステップへの土台をつくりあげていく。僕は何事にもまず「カタチ」にしなければ納得できない種類の人間だ。だからこそまず文章化して思考の土台を築く。その上にさらに新しい思考をつみあげる。そういう作業をつみかさねてゆく。
そのような作業を繰り返していると、当たり前のことに気付かされる。「考えてばかりいてもダメだ」という事実。いくら素晴らしい思想でも、それをカタチにしなければならない。カタチにすることは本当にむつかしい。僕は未だにその壁を越えられないでいる。だからこそ、書いて、思考を続け、カタチを形成する最大限の努力をする。焦っても仕方ないが、ある程度の計画性をもって生きていかなければならないと思っている。マーケティングをしてプランニングをして営業をしないといけない。結局はそのシンプルな事実の壁にぶち当たる…。成長しているのだろうか? 自分…。
ふむ、文章を書いていると体調が良くなってきた。やはり書くという行為にはセラピー効果があるのだろう。気分が乗らない人、考えてばかりいて物事に行き詰まっている人、長文を書いてみるのも良いかもしれませんよ?
体調が悪いと文章が書けない。書いてもひどい駄文である。いつものことである。だったらわざわざ長文で書く意味がないではないかと言われれば、まぁそうなのだが、毎日書く行為は継続したいと思って書いている。ありきたりの言葉で表現すれば、「継続は力なり」である。これは本当に実感している。あらゆる面で大切なことである。
長文でブログを書く意義を考えてみる。はっきりいって、こんな長文でまとまりのない文章を読む人は、それほど多くないだろう。しかも毎日である(笑)ブログを書く意義は人によって違うだろう。誰かに何かを伝えたい、自分のブログを読んでもらって存在意義を確認したい等々、人によって様々であると思う。僕の場合はただ単純に文章を書く練習の場所として、ブログは存在すると位置づけている。だったら別に公開しなくても良いのだが、やはり誰かに読んでもらうという視点は大切にしたほうが良いという気持ちも確かにあるのだ。もっと読んでブログのアクセス数をあげようと思ったら、それはそれで方法は、たぶんあるのだろう。まず長文の文章をやめることだ。写真などをワンフレーズで説明する。そんな形式のブログが人気があるようだ。でも、僕は別に多くの人に見てもらおうと思っているわけでない(見てもらえたら確かにうれしいと思うが)。だから長文を書き続ける。そして長文を書く過程から、自らの思想の軸のぶれを直し、生活リズムを調整して、次のステップへの土台をつくりあげていく。僕は何事にもまず「カタチ」にしなければ納得できない種類の人間だ。だからこそまず文章化して思考の土台を築く。その上にさらに新しい思考をつみあげる。そういう作業をつみかさねてゆく。
そのような作業を繰り返していると、当たり前のことに気付かされる。「考えてばかりいてもダメだ」という事実。いくら素晴らしい思想でも、それをカタチにしなければならない。カタチにすることは本当にむつかしい。僕は未だにその壁を越えられないでいる。だからこそ、書いて、思考を続け、カタチを形成する最大限の努力をする。焦っても仕方ないが、ある程度の計画性をもって生きていかなければならないと思っている。マーケティングをしてプランニングをして営業をしないといけない。結局はそのシンプルな事実の壁にぶち当たる…。成長しているのだろうか? 自分…。
ふむ、文章を書いていると体調が良くなってきた。やはり書くという行為にはセラピー効果があるのだろう。気分が乗らない人、考えてばかりいて物事に行き詰まっている人、長文を書いてみるのも良いかもしれませんよ?
2008年03月24日
楽園を提供する
今月末まであと少し。仕事が終わる。カウントダウンがはじまっている。そして同時に新たな旅立ちへカウントダウンも自分の中ではじまっている。
いつでも仕事の終わるころは慌しいか、暇になるかどちらかですね。今回は暇になっている。僕の場合、多くの場合その例に当てはまる。いつも恵まれている。まぁ引継ぎの関係上、中途半端に仕事を渡したくないのだろう。仕事が暇だと暇で時間の経過が遅くて困る…。「仕事がないならもう今日で辞めさせてもらいます」というのもいい歳してデリカシーがない…。飛ぶ鳥後を濁さずともいうし、どんな状況でもあと少し、文句を言わず我慢して(するほどのこともないが)やり通します。
昨日は近所のヴィレッジ・バンガード(以下、VV)でJ・D・サリンジャー(村上春樹翻訳)の「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」を買った。家の近所のVV。何を隠そうVVの記念すべき一号店。今では全国に展開してお洒落な本屋として有名なこの店も、この倉庫を改造した店から始まった。この本屋であらためて思ったね。人は付加価値を求めている、と。
言葉にすると、当たり前かもしれないけど、すごく大切なことだと思う。VVは本を売るだけでなくて、空間を提供している。VVにいるとお洒落な音楽が流れ、ちょっと贅沢な時間と雰囲気が味わえる。そしてお客が求める、それらのお洒落なニーズを、しっかりとマーケティングしている。本の配列も頻繁に変えて古びないようにしている。本屋は本を売るのが仕事だ。でも、ただ本を売っているだけではダメなのだ。どのような本をどうやってお客さんに提案して買ってもらうか。日本の既存の規格から外れたものを企画する。そしてそれは当然、押付けがましいものであってはいけない。マニアックすぎてもいけない。
最近は感じている。人は日々の生活の中で、小さな楽園をいつも求めている。だからこそ、VVのような店がうけるのだろう。これは本屋だけでなく他の業種にもいえること。忘れていけないのは、本屋にしても何にしても、その商売の基本がしっかりとできていないといけないということだ。基本の軸がぶれてしまっては、いくらお洒落な空間をプロデュースしてもお客はこない。お客がこない店は、どれだけ本人が気に入っていてもそれは自己満足の世界でしかない。
これは文章にだっていえる。手にとって読んでもらわなければ、どんなに素晴らしい内容で、示唆的なことが記述してあっても、それは自己満足でしかない。その意味において、村上春樹が日本文学に残した功績は多大だと思う。精密機械のような文章で、しかも読みやすく面白いのだから。仕事あとの疲れた時間でも読める。岩波文庫だとそうはいかない…。VVと村上春樹は、その仕事方法において共通する。マーケティングで消費者ニーズをつかみ、基本としての軸(販売力・文章力)でそれを表現する。これが本当のプロフェッショナルの仕事なのだと実感する。料理人でも何でも、プロは消費者を第一に考えて腕を磨く。それがプロなのだ。自分のこだわりに妥協せず、でも時には最大限までは譲歩して、消費者に受け入れらる努力をして、受け入れられてはじめてプロなのだ。
どんな時代だって、人に受け入れられなければ多くの意味を成さない。金を儲けたいとそういう問題じゃない。良いものを人に提供したいというシンプルな気持ちがまず大切なのだろう。それは作家だって、料理人だって、商売人だって同じだ。大切な基本は同じなのだ。その表現方法が違うだけなのだ。甘えていてはいけない。それがどんな方法でも良いわけはない。自分の身の丈にあった方法で表現していくしかない。それが今回の労働で得た一番の報酬なのだと思う。何かをカタチにすることで、僕は人に楽園を提供できるような人間になりたい。考えているだけではもうダメだ。そんな時代なのだ。
いつでも仕事の終わるころは慌しいか、暇になるかどちらかですね。今回は暇になっている。僕の場合、多くの場合その例に当てはまる。いつも恵まれている。まぁ引継ぎの関係上、中途半端に仕事を渡したくないのだろう。仕事が暇だと暇で時間の経過が遅くて困る…。「仕事がないならもう今日で辞めさせてもらいます」というのもいい歳してデリカシーがない…。飛ぶ鳥後を濁さずともいうし、どんな状況でもあと少し、文句を言わず我慢して(するほどのこともないが)やり通します。
昨日は近所のヴィレッジ・バンガード(以下、VV)でJ・D・サリンジャー(村上春樹翻訳)の「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」を買った。家の近所のVV。何を隠そうVVの記念すべき一号店。今では全国に展開してお洒落な本屋として有名なこの店も、この倉庫を改造した店から始まった。この本屋であらためて思ったね。人は付加価値を求めている、と。
言葉にすると、当たり前かもしれないけど、すごく大切なことだと思う。VVは本を売るだけでなくて、空間を提供している。VVにいるとお洒落な音楽が流れ、ちょっと贅沢な時間と雰囲気が味わえる。そしてお客が求める、それらのお洒落なニーズを、しっかりとマーケティングしている。本の配列も頻繁に変えて古びないようにしている。本屋は本を売るのが仕事だ。でも、ただ本を売っているだけではダメなのだ。どのような本をどうやってお客さんに提案して買ってもらうか。日本の既存の規格から外れたものを企画する。そしてそれは当然、押付けがましいものであってはいけない。マニアックすぎてもいけない。
最近は感じている。人は日々の生活の中で、小さな楽園をいつも求めている。だからこそ、VVのような店がうけるのだろう。これは本屋だけでなく他の業種にもいえること。忘れていけないのは、本屋にしても何にしても、その商売の基本がしっかりとできていないといけないということだ。基本の軸がぶれてしまっては、いくらお洒落な空間をプロデュースしてもお客はこない。お客がこない店は、どれだけ本人が気に入っていてもそれは自己満足の世界でしかない。
これは文章にだっていえる。手にとって読んでもらわなければ、どんなに素晴らしい内容で、示唆的なことが記述してあっても、それは自己満足でしかない。その意味において、村上春樹が日本文学に残した功績は多大だと思う。精密機械のような文章で、しかも読みやすく面白いのだから。仕事あとの疲れた時間でも読める。岩波文庫だとそうはいかない…。VVと村上春樹は、その仕事方法において共通する。マーケティングで消費者ニーズをつかみ、基本としての軸(販売力・文章力)でそれを表現する。これが本当のプロフェッショナルの仕事なのだと実感する。料理人でも何でも、プロは消費者を第一に考えて腕を磨く。それがプロなのだ。自分のこだわりに妥協せず、でも時には最大限までは譲歩して、消費者に受け入れらる努力をして、受け入れられてはじめてプロなのだ。
どんな時代だって、人に受け入れられなければ多くの意味を成さない。金を儲けたいとそういう問題じゃない。良いものを人に提供したいというシンプルな気持ちがまず大切なのだろう。それは作家だって、料理人だって、商売人だって同じだ。大切な基本は同じなのだ。その表現方法が違うだけなのだ。甘えていてはいけない。それがどんな方法でも良いわけはない。自分の身の丈にあった方法で表現していくしかない。それが今回の労働で得た一番の報酬なのだと思う。何かをカタチにすることで、僕は人に楽園を提供できるような人間になりたい。考えているだけではもうダメだ。そんな時代なのだ。
2008年03月23日
商売魂
商売。中国をはじめ、大陸では至る場所で、色々な商売がある。人が集まるところには露天商が並ぶ。みんなが思い思いの商売をしている。いきなり核心をつこう。日本に足りないのはこの商売だ。商売を行う商売魂だ。
つまりこういうことだ。商売とは想像力を必要とする。想像力はその根拠を必要とする。根拠とはマーケティング(むつかしい言葉にすればだが)だ。消費者が何を必要として、それでどんな商売ができるのかを見極める、それが想像力だと思う。そして更に大切なのは、それを自らの手で実行できる勇気。
これに当てはめて考えると、日本はどうだろう? たしかに商売人はたくさんいる。しかし、その数は減少している。サラリーマン(と失業者)が増加している。若者は格好の良い、起業に憧れる。でも、格好の良い仕事の需要は本当に多いのだろうか? それよりももっと泥臭く、人が必要とする商売があるのではないだろうか?
たとえば中国。どんなものでも商売にする。中国の至る街で夜には祭りのような露天が並ぶ。人はその露天で生活している。確かに経済的にそれほど豊かではないかもしれないが、彼らは身の丈にあった商売で身の丈にあった生活をしている。そこには人間らしい営みが感じられる。それはそこで働く人々の表情で理解できる。とっても豊かだ。
確かに、日本も好きで商売魂を捨てたわけではない。僕らの高度資本主義においてはすべてが資本力でその優越が決定される。資本が多い大手チェーンが低価格で販売すれば、消費者はそちらへ流れる。そうなると僕らはサラリーマンとして、大企業(と、その下請け)に雇われるしか選択肢はない。それか失業(ニート)か、だ。
だからこそ僕は思うのです。商売魂、これを取り戻さない限りにおいて、人間復興の経済は成り立たないのではないだろうか。これは口で言えるほど簡単な話ではありません。偉そうなことを書いている僕だって、日々の生活費を考えて、大手チェーンの安い食料品などを選択します。でも、本当は高くても、しっかりと経済哲学(むつかしい言葉にしてしまえば、だが)を持った製品を買うべきなのです。これからは消費者もそのような選択を迫られる時代になるのではないでしょうか。従来の資本主義に対して限界を感じる時代です。テレビや新聞のマスコミは「偽装」の問題を垂れ流していますが、僕らの現在の社会システム下において、偽装はむしろ当然の行為なのです。問題の本質は偽装よりもその根源となる社会システムにあるのです。それを論じなければ、現在のように、問題の核心から逸れて議論は堂々巡りになります。そう、新聞やテレビは大切なことは何も教えてくれないのです。だからこそ、僕らは一人一人が自らの頭で考えて、問題意識をもって、既存の社会システムを越えるため、より良い社会を次の世代にバトンタッチするため、商売魂を見につける必要があるのだと思います。
正直むつかしい話はどうでもいいのです。結局は自分の力で道を切り開いていくしかないのです。既存の社会システムに納得できないのなら、それを越える努力をするべきなのです。そう思える人間は、それを実行する勇気と想像力を持つ。ただそれだけなのです。
つまりこういうことだ。商売とは想像力を必要とする。想像力はその根拠を必要とする。根拠とはマーケティング(むつかしい言葉にすればだが)だ。消費者が何を必要として、それでどんな商売ができるのかを見極める、それが想像力だと思う。そして更に大切なのは、それを自らの手で実行できる勇気。
これに当てはめて考えると、日本はどうだろう? たしかに商売人はたくさんいる。しかし、その数は減少している。サラリーマン(と失業者)が増加している。若者は格好の良い、起業に憧れる。でも、格好の良い仕事の需要は本当に多いのだろうか? それよりももっと泥臭く、人が必要とする商売があるのではないだろうか?
たとえば中国。どんなものでも商売にする。中国の至る街で夜には祭りのような露天が並ぶ。人はその露天で生活している。確かに経済的にそれほど豊かではないかもしれないが、彼らは身の丈にあった商売で身の丈にあった生活をしている。そこには人間らしい営みが感じられる。それはそこで働く人々の表情で理解できる。とっても豊かだ。
確かに、日本も好きで商売魂を捨てたわけではない。僕らの高度資本主義においてはすべてが資本力でその優越が決定される。資本が多い大手チェーンが低価格で販売すれば、消費者はそちらへ流れる。そうなると僕らはサラリーマンとして、大企業(と、その下請け)に雇われるしか選択肢はない。それか失業(ニート)か、だ。
だからこそ僕は思うのです。商売魂、これを取り戻さない限りにおいて、人間復興の経済は成り立たないのではないだろうか。これは口で言えるほど簡単な話ではありません。偉そうなことを書いている僕だって、日々の生活費を考えて、大手チェーンの安い食料品などを選択します。でも、本当は高くても、しっかりと経済哲学(むつかしい言葉にしてしまえば、だが)を持った製品を買うべきなのです。これからは消費者もそのような選択を迫られる時代になるのではないでしょうか。従来の資本主義に対して限界を感じる時代です。テレビや新聞のマスコミは「偽装」の問題を垂れ流していますが、僕らの現在の社会システム下において、偽装はむしろ当然の行為なのです。問題の本質は偽装よりもその根源となる社会システムにあるのです。それを論じなければ、現在のように、問題の核心から逸れて議論は堂々巡りになります。そう、新聞やテレビは大切なことは何も教えてくれないのです。だからこそ、僕らは一人一人が自らの頭で考えて、問題意識をもって、既存の社会システムを越えるため、より良い社会を次の世代にバトンタッチするため、商売魂を見につける必要があるのだと思います。
正直むつかしい話はどうでもいいのです。結局は自分の力で道を切り開いていくしかないのです。既存の社会システムに納得できないのなら、それを越える努力をするべきなのです。そう思える人間は、それを実行する勇気と想像力を持つ。ただそれだけなのです。
2008年03月22日
台湾総統選挙と華僑資本
今日は台湾総統選挙。国民党の馬英九がどうやら勝利のようだ。まぁ当然の結果だろう。国民党とその背後の資本家は、どうやら台湾という小さな地域で踏みとどまり、そして中国という大陸を、その資本力で飲み込むようだ。
一般に一つの中国は中国の力が強まり、台湾を飲み込むのではない。台湾の資本力が中国と中国共産党を飲み込むのだ。鄧小平の改革解放で誰が得をしているかみれば、その改革開放が誰に向けた改革なのかがわかる。
中国のCCTVでは毎日台湾問題の特集をしている。スタンスは国民党よりだ。かつての敵である国民党の肩を持つとは、共産党内部はかなり腐敗しており、資本で秀でる台湾・客家・華僑を後ろ盾にもつ国民党が勢力を伸ばしているところなのだと予測できる。中国には13億の人民がいるが、世界には1億の華僑とその資本があることを忘れてはいけない。中国のニュースは特に裏を読んでいなければわからない。そしていくら学んでも、表に情報が表れないから益々わからなくなる。中国の社会問題は本当にむつかしい。
さてさて、今日も仕事だった。あと1週間だ。そろそろゴールがみえてきた。最近何だか毎日がしんどい。気持ちの問題だと思う。さぁあと一週間がんばりますか。
おっとまだ1ページほど書くスペースがある。無理して書いても仕方ないとは思うが、あと1週間なのだから、無理してでも、継続しよう。今日は歩きながら、書くことについて考えていた。文章って書き直さないと、結局良い文章は書けないのだろうなと思う。何度も削って加えて、その作業の繰り返しで良い文章となる。現在のように、ただ毎日文章を書き続いていても、文章はうまくならないのだろう。書いた文章を何度も書き直す、その作業がやはり基本であり大切なことなのだろうなぁと、毎日文章を書いていると実感する。でも、それはかなりの労力が必要となる。でもそういう視点ももちろん大切で、ゆくゆくは更新の回数を減らして、「質より量へ」転換しなければならないと思ってはいる。でもまだその時期ではない。一つずつ着実に階段を上るだけだ。
一般に一つの中国は中国の力が強まり、台湾を飲み込むのではない。台湾の資本力が中国と中国共産党を飲み込むのだ。鄧小平の改革解放で誰が得をしているかみれば、その改革開放が誰に向けた改革なのかがわかる。
中国のCCTVでは毎日台湾問題の特集をしている。スタンスは国民党よりだ。かつての敵である国民党の肩を持つとは、共産党内部はかなり腐敗しており、資本で秀でる台湾・客家・華僑を後ろ盾にもつ国民党が勢力を伸ばしているところなのだと予測できる。中国には13億の人民がいるが、世界には1億の華僑とその資本があることを忘れてはいけない。中国のニュースは特に裏を読んでいなければわからない。そしていくら学んでも、表に情報が表れないから益々わからなくなる。中国の社会問題は本当にむつかしい。
さてさて、今日も仕事だった。あと1週間だ。そろそろゴールがみえてきた。最近何だか毎日がしんどい。気持ちの問題だと思う。さぁあと一週間がんばりますか。
おっとまだ1ページほど書くスペースがある。無理して書いても仕方ないとは思うが、あと1週間なのだから、無理してでも、継続しよう。今日は歩きながら、書くことについて考えていた。文章って書き直さないと、結局良い文章は書けないのだろうなと思う。何度も削って加えて、その作業の繰り返しで良い文章となる。現在のように、ただ毎日文章を書き続いていても、文章はうまくならないのだろう。書いた文章を何度も書き直す、その作業がやはり基本であり大切なことなのだろうなぁと、毎日文章を書いていると実感する。でも、それはかなりの労力が必要となる。でもそういう視点ももちろん大切で、ゆくゆくは更新の回数を減らして、「質より量へ」転換しなければならないと思ってはいる。でもまだその時期ではない。一つずつ着実に階段を上るだけだ。
2008年03月21日
肩に力を入れないで、自然体で
仕事は、あと一週間ほどだ。そして今日も暖かかった。だからなぜか仕事をする気がしない。これは反省。でも、もう気持ちは大陸へ行っている。そろそろ中国語のDVDをみて、頭を中国語モードに切り替えなければいけない。
チベットだけではなく、ウイグルでも緊張が高まっているらしい…。ともに今年行こうと思っていた地域。はたして入境できるのだろうか…。せめてウイグルだけでも行きたいと思うのだが、どうだろう? もし入境できても、安宿は公安の目が厳しくて泊まれないかもしれない。いま中国国内で、外国人に問題があったら、中国の面子にかかわってくるからな…。北京五輪にも関連してくるだろうし。予想はしていたが、今回は厳しい旅になりそうだ。
ドル安が続いていますね。でも人民元と円の為替はあまり変わらず。人民元がドルペックであった頃は、1ドル=100円程度で12元程度だったのに、現在は同じ1ドル=100円でも15円弱。ドルが弱くなっているだけで、別に円が強くなっているわけでないという証左ですね。
テレビのニュースをみていてもドキドキする。イラク戦争を転換点として、アメリカという国が衰退を辿っている。そしてアメリカの衰退によって世界のパワーバランスが大きく崩れている。変革の時期にきているのだ。これから数年は激動の時代だろう。人類は否が応でも変革を迫られる。その前に、何もできなくなってしまうその前に、僕はもう一度大陸の地を踏みたい。それを今は最優先にしたいのです。あとで後悔したくないから。何もできなくなるその前に、自分のやりたいことを優先する。
精神的に自分は少しは成長したかなぁと思う。でもよく考えたら僕はまだ何も形にしていない。だから成長しているとはいえない。別に僕は偉くなりたいと思っていない。でも、僕の思想や哲学を、誰かに聞いてもらいたいと思ったら、やはり、それなりの社会的地位を手に入れなければダメだ。人は所詮上辺でしか判断しないのだから。ならば中身だけでなく、結果も残して上辺も着飾らなければならない。昔は人に良く思われたい、誰かを見返してやりたい、女にもてたい等々、今思えばつまらない理由で社会的地位と金銭を求めていたような気がする。でも今は違う。同じ社会的地位を求めるのでもかつてとは全くことなる動機であると今は言えるだろう。その動機=哲学があれば、以前のような失敗に陥ることはないだろうと僕は思う。
難しいことなどどうでもいいのだよ。自分の頭の仲だけで考えていれば良い。一々人に話す必要はない。今の時代は黙って努力して、努力しているのを隠すのが主流なのだよ。隠れて自己主張をするのだよ。でなければ、努力していない人間に煙たがられたり、妬まれたりするのだから。黙って努力して黙って結果を残す。結果を残すために、自分のたった一度の人生を有意義にするために何ができるか、何を優先するべきか、もっとプランニングして結果にむけてターゲットをしぼり少しずつでも行動に移さなければいけない。まずは大陸を踏む。そこで多くを学んで日本で結果を出す。肩に力を入れないで、自然体で。さぁやるぞ。
チベットだけではなく、ウイグルでも緊張が高まっているらしい…。ともに今年行こうと思っていた地域。はたして入境できるのだろうか…。せめてウイグルだけでも行きたいと思うのだが、どうだろう? もし入境できても、安宿は公安の目が厳しくて泊まれないかもしれない。いま中国国内で、外国人に問題があったら、中国の面子にかかわってくるからな…。北京五輪にも関連してくるだろうし。予想はしていたが、今回は厳しい旅になりそうだ。
ドル安が続いていますね。でも人民元と円の為替はあまり変わらず。人民元がドルペックであった頃は、1ドル=100円程度で12元程度だったのに、現在は同じ1ドル=100円でも15円弱。ドルが弱くなっているだけで、別に円が強くなっているわけでないという証左ですね。
テレビのニュースをみていてもドキドキする。イラク戦争を転換点として、アメリカという国が衰退を辿っている。そしてアメリカの衰退によって世界のパワーバランスが大きく崩れている。変革の時期にきているのだ。これから数年は激動の時代だろう。人類は否が応でも変革を迫られる。その前に、何もできなくなってしまうその前に、僕はもう一度大陸の地を踏みたい。それを今は最優先にしたいのです。あとで後悔したくないから。何もできなくなるその前に、自分のやりたいことを優先する。
精神的に自分は少しは成長したかなぁと思う。でもよく考えたら僕はまだ何も形にしていない。だから成長しているとはいえない。別に僕は偉くなりたいと思っていない。でも、僕の思想や哲学を、誰かに聞いてもらいたいと思ったら、やはり、それなりの社会的地位を手に入れなければダメだ。人は所詮上辺でしか判断しないのだから。ならば中身だけでなく、結果も残して上辺も着飾らなければならない。昔は人に良く思われたい、誰かを見返してやりたい、女にもてたい等々、今思えばつまらない理由で社会的地位と金銭を求めていたような気がする。でも今は違う。同じ社会的地位を求めるのでもかつてとは全くことなる動機であると今は言えるだろう。その動機=哲学があれば、以前のような失敗に陥ることはないだろうと僕は思う。
難しいことなどどうでもいいのだよ。自分の頭の仲だけで考えていれば良い。一々人に話す必要はない。今の時代は黙って努力して、努力しているのを隠すのが主流なのだよ。隠れて自己主張をするのだよ。でなければ、努力していない人間に煙たがられたり、妬まれたりするのだから。黙って努力して黙って結果を残す。結果を残すために、自分のたった一度の人生を有意義にするために何ができるか、何を優先するべきか、もっとプランニングして結果にむけてターゲットをしぼり少しずつでも行動に移さなければいけない。まずは大陸を踏む。そこで多くを学んで日本で結果を出す。肩に力を入れないで、自然体で。さぁやるぞ。
2008年03月20日
誰もが恵まれているわけでない
何かを否定しそうになる。何かに絶望しそうになる。そんなときに僕は考えるようにしている。「誰もが僕のように恵まれていない」と。
実際に僕は恵まれているのだろう。色々なことに対して。素直に認めなければならない。そして受け入れなければならない。受け入れるとは、その恵まれたものを素直に受け入れることと同時に、その裏にある自分の弱さや卑怯さも受け入れるということ。
僕は色々なものを否定したがる。色々な無駄に我慢ができない。愚かな人間をみて正論で説き伏せたくなる。それは間違ってはいないのかもしれない。でも、そういうときはこう思うようにしている。「誰もが僕のように恵まれているわけではない」。
僕は自信を喪失していた。それで中国で彷徨したと言っても良い。生きている意味を見出せなかった。仕事での失敗。多くの人への罪悪感。そのような自己嫌悪が僕の心の大部分を占めた。死にたいとは思わなかったが、何のために生きているのかわからなくなった。
「そんな話は聞きたくなかった」
僕は色々な女の子と、デートするたびに過去を打ち明けた。彼女は悲しそうにそう答えた。まだ20代前半の女の子。彼女たちは僕に何を求めていたのだろう? 強い大人の男? 頼れる相談相手? もしかしたらそうだったのかもしれない。ただ単純に縋ってくる年上が嫌だというもあったのだろう。もっと上手に立ち回れば、僕はもっと彼女たちと親密になれたのだろうか? そうかもしれない。でも当時の僕にはその客観性がなかった。チャンスと知識が同時に訪れるタイミングはむつかしい。今なら上手に振舞えるのに…。でも人生ってそんなものなのかもしれない。
弱い自分を認めると同時に、僕は恵まれた自分も認めなければならない。そう僕は恵まれているのである。誰もが僕のように生きていけるわけではない。人はそれぞれに背負っているものがある。捨てられないものがある。護るべきものもある。たとえそれがどんなものであってもだ。僕にはそれを否定する権利はない。何か否定しそうなとき、批判しそうなとき、僕は考える。「誰もが僕のように恵まれているわけではない」。驕りや傲慢ではなく、素直にそれを認める自分でなければならない。そう思うようになっている。弱い自分や強い自分、そのすべてを受け入れられたとき、僕はもう少しまともな人間になれるのかもしれない。だから僕は、肩に力を入れずに、自分のできることから行う。批判では道を開けない。先がみえてこない。批判を超えた許容が必要だ。こういう時代だから。
実際に僕は恵まれているのだろう。色々なことに対して。素直に認めなければならない。そして受け入れなければならない。受け入れるとは、その恵まれたものを素直に受け入れることと同時に、その裏にある自分の弱さや卑怯さも受け入れるということ。
僕は色々なものを否定したがる。色々な無駄に我慢ができない。愚かな人間をみて正論で説き伏せたくなる。それは間違ってはいないのかもしれない。でも、そういうときはこう思うようにしている。「誰もが僕のように恵まれているわけではない」。
僕は自信を喪失していた。それで中国で彷徨したと言っても良い。生きている意味を見出せなかった。仕事での失敗。多くの人への罪悪感。そのような自己嫌悪が僕の心の大部分を占めた。死にたいとは思わなかったが、何のために生きているのかわからなくなった。
「そんな話は聞きたくなかった」
僕は色々な女の子と、デートするたびに過去を打ち明けた。彼女は悲しそうにそう答えた。まだ20代前半の女の子。彼女たちは僕に何を求めていたのだろう? 強い大人の男? 頼れる相談相手? もしかしたらそうだったのかもしれない。ただ単純に縋ってくる年上が嫌だというもあったのだろう。もっと上手に立ち回れば、僕はもっと彼女たちと親密になれたのだろうか? そうかもしれない。でも当時の僕にはその客観性がなかった。チャンスと知識が同時に訪れるタイミングはむつかしい。今なら上手に振舞えるのに…。でも人生ってそんなものなのかもしれない。
弱い自分を認めると同時に、僕は恵まれた自分も認めなければならない。そう僕は恵まれているのである。誰もが僕のように生きていけるわけではない。人はそれぞれに背負っているものがある。捨てられないものがある。護るべきものもある。たとえそれがどんなものであってもだ。僕にはそれを否定する権利はない。何か否定しそうなとき、批判しそうなとき、僕は考える。「誰もが僕のように恵まれているわけではない」。驕りや傲慢ではなく、素直にそれを認める自分でなければならない。そう思うようになっている。弱い自分や強い自分、そのすべてを受け入れられたとき、僕はもう少しまともな人間になれるのかもしれない。だから僕は、肩に力を入れずに、自分のできることから行う。批判では道を開けない。先がみえてこない。批判を超えた許容が必要だ。こういう時代だから。
2008年03月19日
サラリーマン社会の壁を越える
後悔はしたくないよね。チベットへ去年行っておけばよかったかなぁと思った。北朝鮮のほうが、情勢が緊迫していると思って中朝国境地域へ行ってしまった。読み違えたかもしれないね。今年はチベットに入れないかもしれないね。まだわからんけど。でも自分で下した決断だから後悔はしていない。そう、僕は後悔する生き方だけはしたくないんだ。あとでやっておけばよかったなぁという後悔だけはしたくない。
後悔しないにはね、やりたいことを後回しにしないことだと思う。自分が今現在において、一番したいこと、できることをする。これだと思う。言葉でいうほど簡単なことではないけどね。もう何歳だから何かができないとかも考えないようにしている。年齢を気にしすぎる、それは自分の可能性を狭めてしまうものだからね。確かに周りの価値感から逸脱していたら、それに配慮するデリカシーは必要だけど、必要以上に年齢を意識して安定には走りたくない。嫌だ嫌だと思って生きていても楽しくはない。だったら前向きにやりたいことをやる。人を違った生き方をして差別を受けるのは今の時代仕方ない。差別を受けたくないのならば、サラリーマンをやっているか、フリーの立場で社会的な地位を得るかしかない。
そう、僕が越えなければいけないのは、その壁なのだと思う。僕ら日本人の多くは、仕事といえば既存のサラリーマン社会でどう上手に立ち振る舞うかと通常、意識せずに考えている。転職、資格、学歴、履歴書…そんなものばかりに縛られて生きている。そして挑戦する勇気を喪失していく。安定した地位を求めていく。見下されない社会的ポジションを求める…繰り返すが、そんなものにばかり縛られて生きている。
サラリーマン社会を否定してはいけないと思う。対立からは何も生まれない。僕は僕自身、サラリーマンの壁を越えないといけない。自分の力で生きていける「仕事」で、僕は自分の存在意義を見出したい。僕はサラリーマン社会で仕事する分には、今までの経験上、そこそこ上手に立ち振る舞えると思う。でもそれではダメなんだ。自分で何かしようと思ったとき、僕は立ち止まってしまう。はじめのとりかかりが掴めないでいる。これは僕の思考回路のロジックの組み方が間違っているのだと思う。もう一度分解して、そして組み立てなおさなければいけない。ロジックを分解しなければ、いつまでもサラリーマン社会の中で物事を考える人間になってしまう。その壁は越えたいと思う。越える挑戦をする勇気を持ちたいと思う。何か今日も文書うが悪いね。仕方ない。継続継続。明日からまた頑張ろう。
後悔しないにはね、やりたいことを後回しにしないことだと思う。自分が今現在において、一番したいこと、できることをする。これだと思う。言葉でいうほど簡単なことではないけどね。もう何歳だから何かができないとかも考えないようにしている。年齢を気にしすぎる、それは自分の可能性を狭めてしまうものだからね。確かに周りの価値感から逸脱していたら、それに配慮するデリカシーは必要だけど、必要以上に年齢を意識して安定には走りたくない。嫌だ嫌だと思って生きていても楽しくはない。だったら前向きにやりたいことをやる。人を違った生き方をして差別を受けるのは今の時代仕方ない。差別を受けたくないのならば、サラリーマンをやっているか、フリーの立場で社会的な地位を得るかしかない。
そう、僕が越えなければいけないのは、その壁なのだと思う。僕ら日本人の多くは、仕事といえば既存のサラリーマン社会でどう上手に立ち振る舞うかと通常、意識せずに考えている。転職、資格、学歴、履歴書…そんなものばかりに縛られて生きている。そして挑戦する勇気を喪失していく。安定した地位を求めていく。見下されない社会的ポジションを求める…繰り返すが、そんなものにばかり縛られて生きている。
サラリーマン社会を否定してはいけないと思う。対立からは何も生まれない。僕は僕自身、サラリーマンの壁を越えないといけない。自分の力で生きていける「仕事」で、僕は自分の存在意義を見出したい。僕はサラリーマン社会で仕事する分には、今までの経験上、そこそこ上手に立ち振る舞えると思う。でもそれではダメなんだ。自分で何かしようと思ったとき、僕は立ち止まってしまう。はじめのとりかかりが掴めないでいる。これは僕の思考回路のロジックの組み方が間違っているのだと思う。もう一度分解して、そして組み立てなおさなければいけない。ロジックを分解しなければ、いつまでもサラリーマン社会の中で物事を考える人間になってしまう。その壁は越えたいと思う。越える挑戦をする勇気を持ちたいと思う。何か今日も文書うが悪いね。仕方ない。継続継続。明日からまた頑張ろう。


